韻を踏みたい病を発症して、夢でも探すようになった。
起きる瞬間に頭に浮かんでいたのが今でも印象的で「芸能界の最大の愛」なんだけど、何を指し示していたのか全く見当もつかない。
芸能ニュースは日夜目に入ってくるのだがさして興味があるわけでもなく、毎日誰かの発言が炎上している。もっともそれは概してTwitter上でリツイートが多いだけということが大半で、さして大衆が興味を持っているとは思えない。大衆というと主語が大きくて、自分の半径五メートル、特にIT業界、スタートアップ界隈では全く話題になることもなく、もはや話題に上げることすらも憚れる。一般ピーポは他に気になることがないのだろうか。暇すぎないだろうか。人生が暇つぶしで終わるなんて主体性のなさが表面化した結果であり空虚中もなく不可もない、誰も気にも留めない事実だけが残るのみ。芸能界だって対して変わらず、明日には誰も何も覚えていないような日々だ。昨日のことを話題にあげようものなら、すでに置き去りにされたトレンドには膨らみもなく話のタネとしては強くない。
じゃあ最大の愛ってのはなんだろうか。そもそも愛に大きいも小さいもない。というか愛とは、みたいな議論の出発点を定義し足並みを揃えない限りは何を言っても頓珍漢で明後日の方向を向いたアホウドリが鳴くかのように、こちらも哀れな結果を生むことになるだろう。
芸能界は愛でできているのだろうか。たくさんの愛が降り注ぎ、眩く光る反面、闇が立ちこもる。近年は芸能人のスキャンダルばかりが取り沙汰されることが多くなってきた。どのメディアを見ても同じ内容で大差ないコメントをつけ、ネットの声を拾いあたかも一大ニュースの様相を呈すも中身のない釣りタイトルでPVを稼ぐばかりだ。
金を稼げなければビジネスとしては成り立たず、そのためには何をしてもいいという風潮が根強く残っているようだ。私生活における奔放な姿を躍起になって報道し、いずれ視聴者は馬鹿馬鹿しい報道を見ることが日常的に強いられていることに気がつかない。プライバシーが守られぬ、人権意識の低いメディア。もちろん正義の鉄槌を下しだがる小市民たちがいるから成り立っているのではあるが。どうしようもなく暇な人たちでできたコミュニティとでもいうべき社会が、SNSやメディアを通して我々のリソースを奪っていく。間違ってもそこに愛は存在しないだろう。今一度メディアのあり方が問われる。
「そこに愛はあるんか?」