芥川受賞作。遅ればせながら読了。
文学を楽しむような人間ではない。小説は好きだし、活字を読むことを避けるほど忌み嫌っているわけではないが、去年から今年にかけてたくさんの本を読めていて、幸福感を感じる。そんな折に話題となった本も、社会的な幸せと共感を主題としていた。
一貫して「比較」がテーマなのではと感じた。男と女、競技場とタワー、内側と外側、本質と表面。どちらの側面に立っても、主観的な立場での物言いになる。同情を持つことは、相手の感情を慮ることだが他人がいないと成立せず、さらには立場や性質の違いがなければ尚更だ。
作品内にSNSは登場しなかったがそれはもっと大きな象徴としてのタワーがあり、日本を物語る上で欠かせない歴史的建造物の一つとなっている。おそらくはスカイツリーよりも高いものが新宿のど真ん中に建設されればどこからでも良く見えるその景色の中に同情されるべき人たちが生活をしていると考えさせる日常は辛くも心理的な影響は少なくないと推測できる。ただでさえ、刑務所の横を通る時はその事実に心がよぎるのを経験的に覚えている。それが彼らに対する軽蔑か同情かはさておき、社会常識としてネガティブな発言ができなくなれば同情以外の何者でもないだろう。
不幸の始まりは他人と比較すること、と言ったのはChatGPTによるとニーチェらしい。妬み、僻みから来る負の感情は、塵も積もれば山となる、知らず知らずのうちに載積し心を蝕んでいく。人間とはコミュニケーションを基礎とし、関わり合いの中で共生していく生き物だから切っても切り離せないはずだ。だからと言って他人から見れば取るに足らないことでも、比べてしまうことで不幸だと錯覚してしまうのは現代病の一つだろう。それを逆手に取り、街中で見上げてみれば、自分よりも「可哀想な人」が目に映る。その構図はまるで自分自身が恵まれた環境にいると思わせる、ある種逆説的なハラスメントとも取られかねない。ならば、自分は彼らに比べて幸せだ。と思えればそれで生きるのが少し楽になるのだろうか。
同情を強いられた人類が生きる世界線に想いを馳せる。そんなことをしなくても自分自身が幸せで生きられている自信は正直ない。時たま人と比べ自己嫌悪に陥るがそれでも立ち直れるのは自分の未来を信じているからだ。良くも悪くも自分を人と比べて良いことはなさそうだ。さらに言えば、主観的な比較は正常性バイアスがかかり真実を歪めガチだ。自分が正しいと思ったのもの、他人の目から見れば全く違った角度でその外郭すら違って見えることもある。いつだって大事なことは、自分の目が正しくないと心に留めつつ、自分の目で見て判断することである。