さっき、福岡伸一さん✕坂本龍一さんのスイッチインタビューを見たのです。お二方とも、非常に哲学者。
対象(生物であれ音楽であれ)を細かく細かくわけて分析しても、全体はわからない。遺伝子、楽譜で記述はできるが、それが生物や音楽そのものではない
分析過程でノイズを除去しがちだけれども、それによって、見ようとしていたそれ(自然物)から離れて、どんどん人工(ありのままでない)に寄っていってしまう
人間は何にでも意味を求めがちである。人間自身が自然物なのに、そのことを忘れがちである
などなど。同じようなことを解剖学者の養老孟司さんも仰っていた。人は何にでも名前をつけ、そうやってモノを切り分けるのだと。そして全てを「脳化」させ、何でもコントロールできる(ああすれば→こうなる)と錯覚するようになる。ああしても、こうならないことも大いにあるのに。
陰陽師のなかで安倍晴明も同じようなことを言っている。名はもっとも短い呪(しゅ)である。名づけることにそって、それがそれであること、それはこういうものだというイメージを背負わされる。
仏教や密教の偉いお坊さんなんかも、同じようなことを仰る。すべてはつながっていて、相互に作用していて、それ単独で存在するものなどこの世にはない。
切り分けた部分をあつめても、もとの全体にはならない。つまり、切り分けることによってこぼれ落ちてしまう何か(ノイズ)を、不要なものだと切り捨てることはできないのだ。ものごとは、言葉によって切り分けることで遠くに伝えやすくはなるけれど、実物そのものを目にするときの感動、匂い、手ざわりなんかはこぼれ落ちる。伝わっているような気になっているけれど、すべてを伝えることはできない、つまり劣化しているのだ。
山極寿一さんは、ゴリラの研究を通して、言葉ではなく身体を同調させること、場と時間を共有することの重要性を説く。身ぶり、目線、息づかいなどから伝わるものはとても大きい。
…何が言いたかったのかというと、何らかのものを究めて山頂に立った人にしか見えない景色があって、でもそれって実はわりと普遍的なことだったりして、言葉を知らない小さい子どもなんかにはあたり前のことだったりもして。
でも、無意識で理解しているのと、苦労して試行錯誤してようやくたどり着いた理解とは、視野の広さが少し違っていて。
だから、苦労して山に登ることに、意味はある。たとえ戻ってくる場所が同じだとしても、そこ以外の景色を知って、戻ってきているのだから。
生きものの中で、人間だけがもつ複雑な言語は、いったん人間を賢く、しかし愚かにもしたあと、そこを乗りこえて山頂に立った人だけに、頭でっかちな知識だけではなく、生きものとしての普遍的な智慧をあらためて授けてくれる。