不機嫌な先輩の話。

職場の先輩との関係が時おり悪化することがある。わたしは特になにも思っていないが、先輩はなぜか不機嫌な態度を示す。そのような状態がつづくと、わたしもだんだんとストレスがたまっていき、関係が改善されない悪循環におちいる。わたしは常にフレンドリーな間柄でいたいと願っているが、先輩に媚びることは望まないため、気まずい空気がただよう。

めんどうな状況である。

これが「フキハラ(不機嫌ハラスメント)」というものか。いつだってごきげんに労働に勤しみたいわたしにとっては由々しき事態である。たしかに仕事上でのこまかなミスはあるかもしれないが、それはお互いさまであるし、そのことについて反省し、こんごは改善する旨を先輩には伝えている。かさねて書くが、たいしたミスではない。むしろ先輩の方があり得ない失敗をたてつづけにしている。

BADモード。

ただぼやいているだけでは前に進めない。わたしは、最近学んでいる「唯識仏教」の教えをもとに、問題解決を試みることにした。以下はわたしなりに解釈した唯識であるので、間違っていることも多いと思う。浅学ゆえ、そこは大目にみてほしい。

唯識仏教によれば、わたしたちが感じるすべては心が生み出した幻であり、外界に実体は存在しないとされている。この思想は「唯識無境(心の外に世界はない)」とも表現され、すべての物ごとは心の中で認識されるものであるという理解に基づいている。具体的には、わたしたちの心は八つの異なる機能、五感、意識、自我の無意識(末那識)、無意識の記憶庫(阿頼耶識)で成り立っているというものだ。

この考えに従えば、他人の行動や態度も、わたしの心が作り出す現象の一部であり、それらを客観的な現実としてではなく、主観的な認識として受け入れることが重要となる。これにより、外界の出来事に対する反応を自らがコントロールし、心の平穏を保つことができるとされている。

ざっくりいえば、すべては「心のもちよう」ということになるだろうか。JAGATARAの不朽の名曲が脳内にひびく。

ちょっとのひずみなら 何とかやれる

ちょっとのひずみなら がまん次第で

何とかやれる

日々の暮らしには 辛抱が大切だから

心のもちようさ

ちょっとの裏切りなら 水に流せる

ちょっとの裏切りならば 水に流してしまおう

人の愛には打算が いつもついてまわるものさ

心のもちようさ

JAGATARA『もうがまんできない』より

わたしの悩みの基準はシンプルだ。「このこと、一年後も悩んでいるだろうか?」と自問自答する。そうでなければ、ふんわりと悩むか、気にしない。この基準をもうけてから、ほぼ悩むことがなくなった。唯識とわたしの経験則をミックスして、先輩との時間をやり過ごす。

そうこうしているうちに、先輩の態度が軟化した。わたしのなんちゃって唯識的な態度が功を奏したのかどうかは分からないが、少なくともわたし自身、負の感情が増大はしなかった。何千年もの時間を耐えてきた唯識仏教の強靭さの一端を垣間見たと言いたいが、初学の身としては畏れおおい。

たいていのことは、なんとかなるものだ。心のもちようさ。

▽参考文献

@tai
上村朔之助(うえむら さくのすけ)…1975年生まれ。兵庫県芦屋市出身。日本大学芸術学部中退。映像ディレクター、小鳥ものづくり集団「pico」、専業主夫などを経て、「ぴよぴよホームズ」を設立。小鳥物件の譲渡やイベントの開催、鳥グッズの販売などの事業を展開中。インコ歌人、詰将棋作家、ボウラーとしても活動。お問い合わせはXのアカウントまで。 @taikichiro