八ヶ岳で涙をこぼした話。

先月、イギリスのメーカー・ラレーのグラベルロードを買った。通勤や都内の移動はほぼ自転車で済ませているのだが、それだけでなく、ちょっと遠出もしてみたいと思ったのだ。ラレーにしたのは偶然だった。新居の近くにひとりでやっているサイクルショップがあり、そこに展示していたものに一目惚れした。

正月はその自転車で藤沢の実家まで片道50kmかけて帰省した。先週末は多摩湖まで往復60km走った。自転車仲間もいるし、今年の生活はサイクリングを中心に回るかもしれない。いかにも健康的だ。

1994年2月。高校卒業を控えたわたしは、同級生たちと卒業旅行の名目でスキーに行った。まだ、スノボーが流行る前だったと思う。18歳になったわたしは、それまでスキー未経験だった。バブルの残り香がまだある時代だったが、文化系のサブカル気質だったわたしには、チャラいレジャーだという偏見があった。

白銀の世界に降り立った。まず、わたしにはリフトに乗るのがむずしかった。タイミングがつかめない。乗れたとしても、高所恐怖症なので昇っている間、足がすくむ。さらに降りたあと、スキー板で斜面の上まで登るのが至難の業だった。滑る前の段階で挫折しそうになった。

ゲレンデに立つ。同級生の女子がひざを右左右左と動かして、テンポよく滑っている。かっこいい。友達に教えてもらいながら、わたしはスキー板をハの字にして、おそるおそる滑り出した。止まれない。転ぶ。ハの字。曲がれない。転ぶ。初心者の苦悩が続く。同級生女子のように自在に滑るには、どれだけの時間が必要なのだろうか。

スキー2日目。ボーゲンがだんだんできるようになってきた。スピードも出てくる。気持ちいい。次は転ばず滑るぞ。おお。スムーズに曲がれた。この感覚がたまらない。わたしはすっかりスキーに夢中になっていた。これはハマるわ。みんなこんな楽しい遊びに興じていたのか。ケチくさいな、早く教えてくれよ。大学に入ったらスキー三昧の冬になるな、そう確信した。

それ以来、30年間一度もスキーに行っていない。

2000年8月。わたしは子供のキャンプに密着するテレビ番組のカメラマンとして、山梨の宿泊施設に泊まっていた。全国から集まった子供たちが30泊31日の共同生活を通じてどう成長するかを記録する内容だった。全然言うことを聞かない中学生男子や、ひとりの子を無視したり、意地悪する小学生の女子集団など、生活が進むにつれ問題が噴出してきた。

そのキャンプのクライマックスは3泊4日の八ヶ岳縦走だった。八ヶ岳最高峰の赤岳を目指したのは7歳から14歳の子供たちだった。25歳のわたしはそれまで登山未経験だった。ひたすら山を登るのはきつかったし、撮影もしなければならなかった。山小屋での雑魚寝やトイレの臭いもわたしには耐え難いものだった。

登山3日目。ついに赤岳の山頂が視界に入ってくる。最後の勾配はこれまで以上にキツかったが、山頂が見えているので、歯を食いしばって登った。標高2,899m、ついに赤岳に登頂した。目の前には富士山がきれいに姿を見せていた。脳内快楽物質がドバドバ溢れているのだろう。絶景を眺めながら涙がこぼれていた。この快感を得るためにみんな、苦労していたのか。ケチくさいな、もっと早く教えてくれよ。20代後半は登山三昧になると、そう確信した。

それ以来、23年間一度も登山に行っていない。

スキーも登山も、それらの楽しさや快楽は理解した。とてもとてもおもしろいと思う。しかし、わたしはそこに立ちはだかる「めんどくささ」に屈してしまったのだ。もちろん、金銭的な問題もあるが、それは乗り越えられる。必要な道具や、準備、友達との日程の調整、行くまでの時間など、「めんどくささ」の壁はあまりにも高い。そこを難なくクリアしてスキーや登山を楽しんでる人がうらやましい。

わたしがロードバイクやボウリング、短歌、詰将棋に惹かれるのは、それらが「手ぶら」でできるからだ。ふらっといつでもできるもの、そういう遊びを選んできたのかもしれない。しかし、「めんどくささ」から逃げ続けるわけにはいかない。わたしの今の興味は「将棋の駒を彫る」ことだ。将棋の駒を彫るのはめんどうだ。とくに「歩」は18枚も同じように彫らなければならない。手ぶら感からの卒業が、これからのわたしのテーマだ。

RALEIGH CR-DC Carlton-DC

@tai
上村朔之助(うえむら さくのすけ)…1975年生まれ。兵庫県芦屋市出身。日本大学芸術学部中退。映像ディレクター、小鳥ものづくり集団「pico」、専業主夫などを経て、「ぴよぴよホームズ」を設立。小鳥物件の譲渡やイベントの開催、鳥グッズの販売などの事業を展開中。インコ歌人、詰将棋作家、ボウラーとしても活動。お問い合わせはXのアカウントまで。 @taikichiro