25,000円の蝶ネクタイを買った話。

く先日、都内某所の会員制サロン「隠シュハリ」での閑談で、蝶ネクタイを買ったエピソードを披露した。こんな話だ。

2007年10月。仕事でご一緒した声優の小原乃梨子さんから、わたしたち夫婦に彼女が主催する舞踏会の招待状が届いた。舞踏会の経験がなかったため、ドレスコードを調べたところ、燕尾服に蝶ネクタイと書いてある。燕尾服は高価で手が出せなかったため、せめて蝶ネクタイで華を添えようと思い、新宿の伊勢丹に買いに行った。

一番安いものを店員に聞いたら、黒の蝶ネクタイを持ってきて「4,000円です」という。試着してみると、昭和の喫茶店のボーイみたいだと妻がいう。店員に、もう少しいいものだとどれになりますかと聞く。すると、店員が薄ピンクの蝶ネクタイを持ってきて「こちらはいかがでしょうか」と勧めてくれる。これはなかなか洒落ている。値段を聞いてみたら、25,000円だという。

25,000円!? 一瞬耳を疑ったが、この店には4,000円と25,000円の間の価格帯の蝶ネクタイはなかった。蝶ネクタイ事情に疎いわたしにはそんなものなのかと納得するしかない。蝶ネクタイを買う機会は、おそらく一生に一度だろう。妻の助言に従って喫茶店のボーイに妥協せず、思い切ってこの際ピンクの蝶ネクタイにした。そして、妻は気前よく代金を支払ってくれた。

舞踏会はなんとか乗り切ったけれど、蝶ネクタイだけが残った。しかし、この一度きりの使用で終わってしまうと、コストパフォーマンスが悪すぎる。

蝶ネクタイを着用できる場を潜在意識で待ちわびながら仕事をしていたのだろう。その後半年で、わたしが演出した防災関連の教育ビデオが二つの映像祭で賞を獲り、わたしはピンクの蝶ネクタイで授賞式の壇上に立つことになった。25,000円の蝶ネクタイがわたしの能力を引き上げたといっても過言ではないだろう。今では、ウィーンの歴史あるカジノや、とある国の大使館での優雅なパーティなど、わたしは蝶ネクタイに感謝しながら活躍の場を広げている。

このエピソードの肝は、格好から入ることの効果だ。高価な蝶ネクタイを買ったことで、無意識にそれに見合うパフォーマンスをしようとしたのだ。皆は、それは正しいかもしれないけど、おまえが言うと途端にうさん臭く聞こえると笑った。

「形から入る」といういかにも凡庸な話である。しかし、そのことを少しは会得できてきたかなと感じるのはごく最近のことで、若いころは失敗だらけだった。50万円もするベル&ロスの機械式腕時計を頭金なし48回ローンで衝動買いしたこともあるが、明らかに身の丈に合っていなかった。今は型落ちのアップルウォッチで満足している。

ひとり暮らしを始めて半年、自炊の毎日だ。料理を始めようとしている人に対して、わたしがアドバイスできることがあるとすれば、包丁やフライパンなどの道具ではなく、まずは「コック服」を買うことだ。

部屋着として使用しているフリースが引火しやすいと聞いたため、プロ仕様のものを買った。毎日のひとり暮らしの自炊のときに必ず着用している。すると不思議なことに、一流料理人キャラが自分に乗り移り、まるで、お客さん=もうひとりの自分に食べさせるかのように作るようになった。客に提供するのだから下手なものは作れないし、調理にも厳しくなる。結果、美味しいものが出来上がる。何より毎日の自炊が楽しくなる。コック服は2,500円程度で買えるので、安価に「形から入る」グッズではないだろうか。

@tai
上村朔之助(うえむら さくのすけ)…1975年生まれ。兵庫県芦屋市出身。日本大学芸術学部中退。映像ディレクター、小鳥ものづくり集団「pico」、専業主夫などを経て、「ぴよぴよホームズ」を設立。小鳥物件の譲渡やイベントの開催、鳥グッズの販売などの事業を展開中。インコ歌人、詰将棋作家、ボウラーとしても活動。お問い合わせはXのアカウントまで。 @taikichiro