「AIトマソン画集 Thomassonal Solitude」は、画家・江戸和戸歩羽の絵画を、彼の友人であり、架空昭和史作家でもある西川真周が編纂した画集である。歩羽は、「トマソン」と呼ばれる建築物に魅かれ、その孤独な存在を自らの画筆によって表現した。トマソンとは、赤瀬川原平が提唱した芸術上の概念で、建物の一部でありながらも、機能を失ったもの、つまり「無用の長物」となってしまったもののことを指す。たとえば、上って下るだけの「無用階段」がその代表的な例である。これらは都市空間において特に多く見られるものだ。
私は作品の一点一点を鑑賞し、そこに描かれているトマソンと向き合った。トマソンは、現代社会において、目的や機能を失ってしまったものの、美しくあろうとするものの姿である。私は、歩羽が描くおぼろげな風景の数々に、トマソンは、人間の存在そのものを映し出しているのではないかと思った。
私は、何が価値のある生き方なのか、という問いに対して、自分にとって唯一の正しい答えを持たないことを自覚している。自らの存在に意味や目的を見出そうとするが、それが社会や他者から認められるとは限らない。自らの存在に矛盾や曖昧さ、狡猾さがあることを認めつつ、見て見ぬ振りをする。自分という存在に美しさや尊厳があると信じているが、それゆえに、苦しみや悲しみに直面する。私も含めた多くの人たちは、トマソンのように、無用の長物であるからこそ、超芸術であるとも言えるのだ。
西川は、エピローグで「歩羽氏の友人の一人として言わせてもらうと、『厳選する』という行為はつまり、ある種のカニバリズムなのだ。彼を知ってもらうためには、屠殺し、切り刻み、調理し、それを他者が咀嚼し、享受し、やがて彼らの血となり肉となる。」と刺激的な筆致で書く。それに倣うなら、私もまた歩羽を調理した西川真周という作家を、メタファーの世界に引き込むという食物連鎖の一部として機能しているのかもしれない。
私は、画集を見終わった後、西川の意図したとおり、自分の立ち位置に少し変化があった。私は、トマソンに目を向けることで、自分の存在にも目を向けることになったのだ。この画集は、トマソンという無用の長物を、新たな角度から照射し、人間の存在の意味や価値を、超芸術という観点から問い直すものだと解釈した。ぜひ、「AIトマソン画集 Thomassonal Solitude」を鑑賞して、私と同じようにこの不思議な感覚を味わっていただきたい。
……ここで書評が終われれば、スマートな締め方だが、そうもいかないところがこの画集の面白いところだ。理由はタイトルにも明示されている通り、収録されている絵画はすべて画像生成AIが生み出したものだからである。
ひとつひとつ紐解いていくと、そのかなり複雑な構造を見出だせる作品集である。ディープフェイクの文脈で語ることもできるだろう。しかし、西川はパスティーシュであることをところどころで諷示しており、自分の作品に対する距離感や皮肉も感じさせる。私はAIによって生成された画像のクオリティの高さに目を見張った。それは西川のこれまでの修練の賜物だけでなく、他のどの作家にも真似できない独自のセンスの表れだと感じた。そして、トマソン自体は実在するし、西川のトマソンへの思い入れも本物である。このようなねじれた構造の画集を目にしたのは初めてだった。私は、西川の遊び心に感心し、共感した。
江戸の浄瑠璃・歌舞伎作者である近松門左衛門の言葉を引用しよう。
芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也〈略〉舞台へ出て芸をせば慰になるべきや。皮膜の間といふが此也。虚にして虚にあらず実にして実にあらずこの間に慰が有たもの也。
芸というものは、実際の事実と作り話との微妙な境界にあるものです。舞台に出て芸をするときには、その境界を見極めるべきです。境界というのは、こういうことです。作り話だけど作り話とは言えないし、事実だけど事実とは言えない。その間に芸の楽しみがあるのです。
AIは、「実」と見分けがつかないほどの「虚」を作り出せるようになっている。虚実の皮膜を溶かしてしまう新しい技術を使ってどんな芸を披露して、どんなメッセージを伝えようとしているのか。西川が「AIトマソン画集 Thomassonal Solitude」で提示した虚実皮膜は、画像生成AIが人々に膾炙しながらも、いまだ揺籃期とも言える2024年に発表された作品として、これからも貴重な意味を持ち続けるだろう。ぜひ、西川真周の妙ちきりんな脳内世界の一端を覗いていただきたい。