子どものころ、父の存在は希薄だった。深夜に帰宅して、わたしが登校する時間にはまだ寝ている。週末は家にいたのだが、日中わたしはラグビースクールに通っていたのでほとんど記憶にない。
どうやら父が働いていて、その稼ぎで暮らしているのだと認識したのは中学生になってからだった。それまでまともにコミュニケーションをとっていなかったのに、思春期にさしかかったわたしが父とまじめな話をできるわけがない。いまだに、面とむかって会話をしたことがない。恥ずかしいのだ。
高校生のころ、葉山というド田舎に住んでいたわたしは、横浜にある高校から逗子駅発のバスで30分かけて帰宅していた。すると時おり、バスの列に父が並んでいることがあった。30分も車中で父と一緒にいるなんて耐えられない。わたしはそっと息をひそめて柱に隠れ、次のバスまで待つという行動をとっていた。別に怖い存在ではない。後年、父は「子どもに興味ないんだよなー」とうそぶいていた。いや、本当にそうだったのかもしれない。
父は広告代理店に勤務し、クリエイティブ・ディレクターをしていた。具体的にどんな仕事内容だったのか。わたしも聞かなかったし、父も話さなかったのでよくわからなかった。
わたしが高校生のとき、父はアメリカに撮影に行き、シカゴ・ブルズのスコッティ・ピッペンのサインの入ったバスケットボールをお土産に持って帰ってくれたことをおぼえている。NBAに興味がなかったので、バスケ好きの友人にあげた。いま検索してみたら、マツダのデミオという車のCMだった。
月日はながれ、わたしが30歳を過ぎたころ、箭内道彦さんを取材する機会があった。“NO MUSIC NO LIFE“の人だ。箭内さんは、独立する前、父の勤めていた会社にいた。取材後にわたしは「実はワタクシ、上村J吉の息子なんですけど…」と聞いてみた。「えー、J吉さんの!お世話になりましたよ」と、箭内さんは驚きの声をあげた。
「すごい人でしたよ、伝説の人。忘れられないのはあれ、1万円の領収書があるじゃないですか、それを経理の前で、平気で0ひとつ付け足して10万円の領収書にするんですよ。しっかりカンマとか打ってあるのにですよ!経理の人もJ吉さんだから仕方ないか、みたいな空気になって受け取るんですよね、その領収書。あんな人もう現れないだろうなあ。」
30歳を過ぎて初めて耳にした具体的な父の仕事の話だった。箭内さんは帰り際に「J吉さんに育てられ、いま一線で活躍しているクリエーターがたくさんいますよ!」と言ってくれたが、領収書の話を咀嚼しきれず頭に入ってこなかった。
ほどなくして、中島信也さんにも取材をすることになった。日清カップヌードルのCMでカンヌ国際広告祭のグランプリを獲り、いま東北新社の社長をやってる人だ。取材の後に同じく父のことを聞いてみた。
「ほんまですか!J吉さんにはめちゃくちゃお世話になりましたよ。よーさん一緒に仕事させてもらいました。ボクがJ吉に今のどうでした?て聞くでしょ。そしたら『いいんじゃない』しか言わへんのです。ほんまに大丈夫ですか?て確認しても『中島くん、いいねぇ、いいよぉ』しか言わない。段々こっちが不安になってくるんですわ」中島さんは楽しそうに話す。
どうリアクションしていいか分からないエピソードばかりだったが、思いがけず、ぼんやりだった父の姿に輪郭が見えてきたふたつの取材だった。
ことし父は80歳になったらしい。らしい、というのは父の誕生日を知らないからだ。当然プレゼントなどはしたことがない。そんな父の言葉で心に残っているものがある。まともに対話をしたことのない父からわたしへの唯一のアドバイスかもしれない。
『鮨は握られてから30秒経ったら不味くなる』
わたしは鮨屋に行くたびにこの言葉を思い出し、握られたらすぐに食べるようにしている。
