気がつけば、私は脳内の盤上で駒を動かす狂人になっていた——
長らく将棋から遠ざかっていた私は、2013年に将棋ウォーズという、スマホで気軽に対局できるアプリが登場したことで、その熱が再燃した。ネット対局とはいえ、20年ぶりに将棋に触れることができた。棋力は、いまだに2級にとどまっているので、自慢できるものではない。しかし、おかげで、プロ棋士とコンピューター将棋ソフトが対決した将棋電王戦や、藤井聡太の対局を手に汗握りながら観戦することができた。
それが2017年6月23日だった。将棋ウォーズで対戦した局面から詰将棋が作れそうだと思った。完成した図を#詰将棋というハッシュタグをつけて、Twitterに投稿した。

すると、知らない人たちから、「『余詰です』『不完全作です』」といったリプライが次々と届いた。余詰?不完全作?聞いたこともない言葉にどう返せばいいのか、さっぱりわからなかった。私は「詰将棋」というものの本質を知らなかったのだ。
私に信条があるとすれば、知らない世界に飛び込んだときは、謙虚でいること、素直でいることだ。「不勉強で申し訳ありませんが、余詰ってなんですか?」。分からなければ、納得するまでとことん聞く。謙虚にしていれば、必ず丁寧に教えてくれる人が現れる。さらには、その世界のしっぽを掴むことができる。
詰将棋とは、将棋のルールを使って、王手から逃れられないように相手の玉を詰ますパズルであり、詰将棋の作家は、そのパズルに独自の発想や工夫を加えて、芸術作品に仕上げていく存在だということが、段々とわかってきた。芸術作品と言われると首をかしげる人がいるかもしれないが、まごうことなき創作であり、そこには美がある。詰将棋の妙手を見るのは、ゴッホのひまわりを鑑賞するのと同じくらいの感動がある。
その日から、詰将棋創作に没頭する日々が始まった。毎日欠かさず、タカギの詰将棋というブログに自作を掲載した。詰将棋を作るのが楽しくて、夢中になっていた。自分のブログを見直したら、驚いたことに、304題もの作品が並んでいた。「スマホ詰パラ」という詰将棋アプリにも投稿を始め、採用されるようになった。初採用が2017年7月27日のことなので、創作を始めてから1ヶ月後だ。私の原図に、nono_y氏という著名な詰将棋作家からアドバイスをもらって完成した共作である。

気がついたら、完全に詰将棋のとりこになっていた。仕事中でも形になりそうな図を思いついたら、ペンで手のひらに書いたりした。家に帰るとパソコンに向かい、詰将棋に特化した「柿木将棋」というソフトとにらみ合いだ。寝ようとして目をつむる。すると、脳内で勝手に将棋の駒が動き出す。明日仕事が早いのに、駒は止まってくれない。家人を起こさないように、そっとパソコンを開く。マウスを動かして確認する。余詰だ。でも、これは配置を変えれば完成しそうだ。今度はここで変同か。このキズは大きい。どうするか。そして気がついたら朝の8時。
おおよそ1年間、毎日がこんな調子だった。完全に依存している。詰将棋中毒だ。躁状態のように興奮していた。頭の中の駒たちがうるさくて気が狂いそうだ。このままだと精神も壊れそうだし、身体ももたない。私は狂人と化す前に、ひとつの区切りの意味で、目標を決めた。
「詰将棋パラダイス」に入選すること。
「詰将棋パラダイス」、通称「詰パラ」は日本で唯一の詰将棋専門の同人誌で、藤井聡太が息抜きで読む雑誌として、一時期話題になった。詰パラに入選する難易度がどれくらいかというと、ジャンプの新人賞に入選するぐらいか、それ以上ではないか、とはマンガ文化にも精通するnono_y氏の弁だ。
2019年になり、私が音頭を取って、Twitterで交流していた詰将棋作家10名ほどと南青山のシュハリで宴会をした。詰将棋作家の最高峰である看寿賞作家を初め、詰パラ常連の錚々たるメンバーが集まった。彼らは普段、孤独な創作作業に没頭する者たちだ。お互い初対面でも、将棋盤を挟むと「新作ができたんですけど、解いてもらえますか?」「この変同が消せなくてねえ」などと即座に会話が弾み、宴は熱狂した。まるで、長年閉じていた詰将棋の箱が、一気に開かれたような夜だった。同好の士というのはよいものだ。何より、皆、常識人で温和だったので安心した。詰将棋作家のイメージは、気むずかしい学者みたいな人ばかりを想像していた。

彼らの作品や、若島正氏などの作品集を見ると、私には詰将棋創作の才能や技量が絶望的になかった。そのことは、作れば作るほど身に沁みて痛感した。そんな折、尊敬する詰将棋作家から「察するに上村さんはマルチなアーティストなので、詰将棋を理詰めじゃなくて、音楽や香りや味覚などでも表現するような、新しい領域を示してもらえたら嬉しいです。」とのアドバイスをいただいた。
この言葉に気が楽になった。私には詰将棋創作の才能はないかもしれないが、ふと想起した感触を形にできれば、ひとつぐらいは作品と呼べるものができるかもしれない。駒を並べ続ければ、偶然ひらめくかもしれない。労作でも偶然でも、完成した作品に優劣はない。ひとつだけ、ほんの少しだけでもいいので、爪痕を残したかった。そんな束の間、ある図面が頭に浮かんだ。これはひょっとしていけるんじゃないか。何日もかけて丹念に推敲した後、nono_y氏に見せたところ、この作品は詰パラに応募する価値があると後押しされた。
2019年1月29日——創作開始から585日目——ついに「詰将棋パラダイス」に初入選した。(タカギタイキチロウは私の別名義。)
胸の高鳴りを感じながら、今はなき新宿将棋センターに足を運び、私は購買部で詰パラを2冊購入し、その場で自分の名前を確認した。西新宿五丁目の自宅まで歩いて帰った。新宿副都心の冷たいビル風に脳みそを冷やされて、憑き物が落ちた気分だった。以来、創作は年に4つぐらいのペースに落ち着いた。


趣味があることは、よきことのような風潮が世の中にはある。しかし、何かを突き詰めることは、生活が破綻することと紙一重だとも思う。そのバランスが危ういときこそ、生を実感し、命がほとばしる。厄介である。趣味とは生易しいものではないのだ。
最後に詰将棋に出会って最も印象に残っているエピソードを紹介する。奥薗幸雄という詰将棋作家が、1955年に『新扇詰』というタイトルで、当時最長873手詰の作品を発表した。奥薗はこの作品を発表した20日後、21歳の若さで亡くなっている。解説では、「恐らく『新扇詰』の創作に尨大なエネルギーを消費し尽くしたことが死を早めたものであろう」という淡々とした一文で締めくくられている。(「続詰むや詰まざるや 古典詰将棋の系譜」門脇芳雄、平凡社)」
早逝した奥薗は詰将棋というマイナーな世界でその名を歴史に残した。21歳の彼が『新扇詰』完成時、感じたのは達成感か、それとも燃え尽きた虚無か——しかし、詰将棋の深淵を垣間見た者として、彼が、私には到底及ばない境地に達したであろうことは想像できる。繰り返し書く。趣味とは、けっして生易しいものではない。詰むや詰まざるや。人生のまだ見ぬ理想の図面を求めて命を削る美しくも残酷な“遊び“なのである。
