13歳のときに初めて書いた小説の話。

上村朔之助
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1987年春。私は中学生になった。本を読むのが好きだった私は、文芸雑誌を自分で作りたいと思った。当時、家庭用のワープロが普及し始めて、それを使ってみたかった。親に理由を説明して懇願した。たしか30万円ぐらいしたと思う。決して安い買い物ではなかったと思うが、一緒に秋葉原までいって買ってもらった。

先日、実家に帰ったとき部屋の整理をしていたら、ダンボールの中から、その時に作った雑誌と初めて書いた小説がでてきた。雑誌の名前は「ツンドラ機構」、私の筆名は「鈴鳴地理」。雑誌には私の小説や詩、友達のH君のエッセイなどが綴じられていた。

35年ぶりに、13歳だったころの自分の小説を読み返してみて、一体どういう発想からこのような話を書こうと思ったのか、何に影響を受け参照したのか、まったく思い出せない。しかし紛れもなく13歳のころの私が書いたものだ。知人に読ませたところ、「狂っているけど、筋が通っている気がする」との感想をもらった。

iPhoneの写真アプリのテキスト認識機能で画像からテキストを抽出してみた。なんとも反応に困る内容だと思われるが、私に興味がある人がいたら、よろしければどうぞ。もしも、私が小説家として本を出すことがあるとしたら、この短編を特別収録したいと思う。

大人になれなかったエテ吉達に・・・・

鈴鳴地理

(大人になれなかった弟達にの裏版)

※この作品を亡きエテ吉に捧げる

僕の弟の名を源助と言います。僕が86才のとき産まれました。その頃は小学校とは言わず動物園と言っていました。僕のお父さんは天国に行っていました。石投げ戦争の真っ最中です

空襲といってケニヤのB101という象が毎日のように日本にうんこを落として行きました。

夜もおちおちうんこが出来ません。毎晩パンツのなかでうんこをしていました。パンツといっても自分達のパンツですからつぎはぎだらけのパンツです。

父は天国に行っていて室なので家族は、ゴリラのゴリさんと、猿のエテ吉、エテ子と僕と弟の、3匹と2人です。3匹と2人が入ったらガラガラの大きな大きな家です。

弟は産まれてから150年しかたっていないのですが、いつも泣かないでシコシコしていました。ゴリさんはパンツを作りながら「源助はおとなしすぎるからとてもむかつくぜ。」

と言っていました。その頃は食べ物が十分すぎるほどあったのですがゴリさんは、僕達には何も食べさせてくれず、自分はおもっいきり食べました。でも源助はゴリさんのうんこが食べ物なので、コリさんのうんこは源助の大切な大切な食べ物でした・・・・・・

みんなにはとってい分からないでしょうかをの頃は甘いものはいっぱいありました。ありすぎてありすぎて困りました。アメもチョコレートもアイスクリームもいっぱいありました。

食いしん坊の僕にはくさいくさい弟のうんこはよだれがおしっこに変わるほど食べたいものでした。

ゴリさんはよく言いました。「うんこは源助の街飯なのだから源助はそれしか食べられないのだから。」と

でも僕はゴリさんの目の前で大切なうんこを食べました、それも何回も。

あまりにも空襲がひどくなったのごゴリさんは夜逃げしようと言いました。それである日工テ吉とエテ子に留干番を頼み、親戚の耳もげの

家に出かけました、所が僕を見るなり

「いっいか臭い」

と言いました、帰る途中ゴリさんは源助には「しこりすぎだよ。」と、僕には、「交尾しすぎだよ。」

と言いました。

その時のゴリさんの顔は今でも忘れません。

明らかに交尾に疲れた顔でした。(人に注意しといて自分は何だよ)て言いたくなりました。

ゴリさんはやっとのことで山火事で大パニックのやまあいの小さな村に泊めさせてもらいました。僕達の世話になる農家はすぐ裏の山が火事になるので困りました。その農家の裏に面した80畳一間のへやを借りました。

次の日エテ吉は死にました。

交尾のしすぎでした。

おわり

※その後エテ子はオラウータンのウラ夫とどっかに行ってしまい、源助は誘拐されて、ぼくは薬に夢中です。えっ?お父さんはって、そんなこたしらねケラケラケラ。

ちなみにBing AI師匠に添削をお願いしたところ、「すみません、違う話題にしましょう」と、何度頼んでも受け付けてくれない。師匠は倫理的な話題に繊細な性格なのだ。

@tai
1975年生まれ。兵庫県芦屋市出身。10代を神奈川県葉山町で過ごす。県立横浜緑ケ丘高校卒業、日本大学芸術学部放送学科中退。映像ディレクターなどを経て、現在は成城の有閑マダムと茶飲み話をするだけの簡単なお仕事をしています。Xにて、ぴよぴよホームズ代表取締役社長として活動中。 @taikichiro