(ネタバレを含みます)
冒頭は主人公である、平山(役所広司)の生活が丁寧に描かれる。決して裕福ではないが、自分の手の中にある生活を大切に生き、毎日の機微に幸せを感じることのできる生活
その豊かさは羨望の対象のように映る
映画が始まり、映像が流れ、木漏れ日の光の美しさに心打たれ、「ああ、このようなことに気づけていなかった」と、自分も心が洗われていった
しかし、話が進むにつれ、違和感が浮かんでくる
平山に余裕があるのだ。
この余裕は限られた生活の中で小さな幸せに満足している余裕ではない。強いられた生活ではなく、自分で選び取っているからこその余裕ではないか?
急に話が飛ぶが、私は、幼少期から大人になるまで日本家屋で育った。両親が共働きで隣の祖父母の家に日中は預けられていたからだ。
古い家は不便だ。整備しなければ、すぐに住めなくなってしまう。
祖母は家のことでいつも忙しそうにしていて、せっかちだった。今も帰省した時に会うととんでもない早口で話す。
せっかちにやらねば終わらぬのだ。掃除なんて面倒だし、さっさと終わらせたい。そんな姿をたくさん見てきた。
一方、平山はどうだろうか?
古い家に住み、多くの制約がある中で、やらねばいけなさ、を全く感じない。高貴な空気さえ纏っている
それは、つまり自分から選び取って行っているのだ。ひとつひとつの行為がまるで儀式のように。何かを祈るように…
そして、ニコとの邂逅と別れのシーン。そこで確信した。この男は自ら手放してこの生活をしている、と。
あちら側(こちら側)の境界を跨がぬように。毎日の営みは、この生活を保つためにしている行為なのだ。感謝と祈りを捧げるために。
ストーリーが進むにつれ、そんな平山の生活にも登場人物たちによって一石が投じられていく。その揺らぎの中で、平山自身の境界も揺らいでいることに気づく。
手放したくて、人に感謝したくて、日々の小さな変化を尊いと思いたくて、自分以外とは距離間のある生活をしてきた。それで満足していると思っていた。
人の温かみに触れた時、自分の奥底の揺らぎに気づいてしまう。
そして、最後の長尺のシーン。物議を醸す場面だとは思うが、あのシーンがあるか、ないかでは作品の感想が180度変わるだろう
他者の温かさを感じられた喜びと、己が拒絶したことにより気づけたという事実。そして、その世界に生きる(生きたいと思う)限り、望もうとも戻れない哀しみも孕んでいる…最後はそんな笑顔と涙だったのではないか。人によって捉え方は変わるにしろ、私にとっては、確実に必要なシーンであった。と思う。
これは"丁寧な暮らしにより日々の尊さを感じられる"人の物語ではない。尊さを失った人の物語なのだ。最後のシーンがそれを語っていると思った。
手に入らないことで世界の愛おしさを愛でられている。その事象そのものが、そもそも虚構かもしれない。
それでも平山はこの生活を続けるのだろう。例え、それが虚構だったとしても。