なにかをするためには一人でできないことが多い。もちろん、仕事をする職場でもそうだ。
だからこそ、一緒に働く人を「理解しよう」とする。
でも、本当に相手を理解することはあり得るのだろうか?
家族を理解するのも難しい、ましてや自分自身に対しても理解できない感情にあふれる瞬間だって往々にしてあり得る。
だからこそ、「理解する」のではなく「知りたい」と思う。
元来は内向的な自分が、誰かと話そうと思うのは、「理解」ではなく、「知りたい」と思うからなのかもしれない。
「この人はこういう人だ」と理解したと思わず、決めつけず、その場を観察し、対話を繰り返す。
それは川の水面を見つめるような感覚に、なんとなく近い。