神に祈りと感謝をささげること

tak428k
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山に捧げた感謝

先日、とある山に感謝したことがあった。

どういう意味なのかを訝しむ人は、この文章を読む人(日本語を読める人)にはきっといないだろう。新幹線で富士山が見える位置に席を予約するみたいな、そういうものの一種だ。山があったら、感謝するものであるくらいの感じ。

ところで、僕は自然にそうしたあとで、自然にそうしている自分に気づいた。それは僕にとっては違和感のあることだった。

昔から僕は、いただきますとかごちそうさまみたいな挨拶に意味を見出せなかった。なんとなく食べ物や命に感謝するというのはわからないではないのだけど、自分が実感を伴って感謝したことはない。

それはきっと、自分の経験値の中に生き物と生き死にと向き合った経験とかが少ないとか、色々とあるのだろう。知らんけど。

そんな僕が、自然と山に感謝をしていることに驚いた。それは驚くべきことだった。

神の存在

僕はこの世に神がいることは確信している。

ただそれが、例えばキリスト教などで出てくる神と同じなのか、それとも日本人の言う神と同じなのかはまだよくわかっていない。ただ、僕の感覚ではその神はそんなに数はいない。

僕は神は「そこにいる」と常々思っている。いつも意識すれば、そこにおられる。

だから、その山に感謝を捧げた僕は、こう思い直した。本当は山ではなくあの山を創造された神——そのように表現するしかない存在——に感謝を捧げたのだと思う。

少なくとも、山そのものに感謝するよりは神に感謝するほうがずっとしっくりきた。

神に従う幸福

それ以来、僕はずっと神に感謝している。

神に背かずに生きることで、よりよい人生となり、よりよい社会になると確信している。そこに僕がなんらかの貢献ができることを僕は確信している。

例え僕が命の危機に晒されても神が守ってくださるとも確信している。

こうした絶対的な拠り所に従って生きることができるのを、とても幸福なことだと感じている。

@tak428k
ソフトウェアエンジニア