という本を読んだ。
色々と言いたいことがある本があり、自分の中でも咀嚼が難しい。
通常、本を読み終えたとき「この本はこの部分が良い」とか「この部分が良くない」みたいに考える。しかしこの本は、良いと思う部分と決定的にダメな部分が同時に存在している感じだ。
この本を賞賛するためには批判しなければならないし、批判するためには賞賛しなければならない。
ということで、長々と書いてみることにした。
日本語の特徴
まず、著者が日本の政治や天皇制、ひいては我々が日々何気なく使っている日本語とが関連していると見出したのは見事な視点だと思う。この記事もお気づきのように日本語で書かれている。
言語にそんなに明るくない自分が僭越ながら解説すると、例えば僕が上に書いた「お気づきのように」という日本語は聴衆をどのように意識するかによってさまざまに変わる。
お気づきのように
(目上の人に対して)既に気づいてらっしゃるとは思いますが
(親しい人物に対して)もう気づいていると思うけど
ところが英語では as you noticed しかない。いや、僕が知らないだけで英語にも異なる表現はあるかもしれない。しかしここで重要なのは表現が複数あるかどうかではなく、文字表現から人と人の関係性が立ち現れるかである。
この文書はだ、である調で書いている。それは僕の好みというのもあるが、読者を想定していないからできることだ。目上の人とも部下とも友だちとも思っていない。読者の人格を意図的に捨象しているからこのように書いている。
逆に、僕はnoteを書くときはある程度は読者を想定する。そこでは人格を捨象せず、ですます調で書くこともある。
著者はフランス語を50年以上学んでいるらしく、だからこそ日本語とフランス語(ラテン語などを基礎にもつ言語)との根本的な違いに気づいた。そして言語としてでなく、その言語が思想や社会にまで広がっていることを見出した。
それが正しいかどうかはおいておいて、この考察は見事だと思う。
天皇制廃止論と西洋思想の内面化
この本の著者は天皇制廃止を訴えている(と僕は読んだ)。そもそもこの本の根本的な主張は、日本の政治腐敗やこの社会の変化の遅さはすべて天皇制に端を発するものであり、天皇制が日本の近代化(西洋化)を今も阻み続けていると主張している。その理由のひとつが日本語ではないかということで日本語の話もしている。
僕個人は天皇制を廃止すべきという主張は結構わかるつもりである(危険な発言である)。でも同時に、僕が死ぬまでに天皇制がなくなるとは思っていないし、なくしたいとも思っていない。
天皇制を廃止すべきかどうかについて僕は詳しくここで論じたくはないので書かない。僕がこの場で話題にしたいことはその前段にある。この本は(おそらく無自覚に)西洋や近代が絶対的に素晴らしいものであるという前提がある。僕はその前提は大間違いであると思う。
確かにフランス革命は世界に衝撃を与え、いまの僕らもフランス革命の影響なしには生きていない。人権があると信じていて、法の下で平等であるべきだと僕も思っている(実際には世界は富と名声の下に平等になっていることを僕は苦々しく思っている)。
しかし、僕は日本がさらに西洋化・近代化するべきであると思っていない。
色々な問題はある。僕もなぜ選択的夫婦別姓制度が30年以上議論されてずっと平行線なのかまったく理解はできていないし、職場における男女差別は歴然としてあるし、西洋近代の理想に反する事象や課題はものすごくたくさんある。
一方で、それらが近代化の理想を追求すれば解決するかといえば、それとこれとは違うやろとしか思わない。近代化の追求はイデオロギーであって、日々の暮らしの課題解決の手段ではない。
みんな必死に生きている
最近、「なぜ韓国の若い男性はおかしくなったのか」というかなり偏見のある見出しのタイトルを読んだ。
おかしいとはなにを指しているのかというと、一言で言えば保守化することを指している。つまりこの記事の想定読者は保守化することをおかしいと捉えているであろう、ということで著者か編集者がこの見出しをつけたわけである。
彼らを丸ごと怪物扱いするのではなく、綿密に様子をうかがい、静かに声をかけるべき理由はここにある。
このように結んでいる記事が、この見出しなのはどういう了見なのだろう。俺に言わせれば記事に何を書いていようが、このタイトルをそのまま通している時点で全て台無しである(なぜ韓国の若い男性は保守化したのか、でいいだろう)。
保守化しようがなんだろうが、人間は自分なりに必死に生きているだけである。
日々の暮らし——受験勉強、大学時代の働き口、多忙な業務と勉学、薄給、苛烈な競争環境における就活、就職したらしたで激務、結婚や子を持つことへの社会規範、家庭内の性別役割分担——これら全てが自分の思想に影響を与える。その中には性別が関係する内容ももちろんある。
しかし、もちろんおかしな思想の持ち主だから保守化するわけではない。保守化したからおかしいわけでももちろんない。必死に生きた結果として保守化するのだ。
どんな人間も目の前のことに悩み考え自分なりに行動をする。現状維持を選ぶのもひとつの回答であり、努力しないというのもひとつの回答である。それらすべての回答は、その人の人生経験と生きてきた、そして生きている環境で作られた意思決定だ。
彼らはその人生全体の経験を通して、保守的な思想を持つに至ったのである。断じておかしくなっていないし、もしあなたがおかしいと感じるのであれば、それは彼らの日々の暮らしに課題があるからだ。
別の記事の話ばかりしてしまったが、もとの本もそうだ。日本の政治が変わらないのは日本社会がずっと幕藩体制以来本質的には変わっていないからで、その変わっていないことの最たる象徴としての天皇制、そして天皇制を支える日本語という構造があるという指摘は正しいかもしれない。
しかし、だから日本はダメなんだという指摘はまったくもって見当違いだし、本当はその政治の腐敗を正せるはずの日本人が政治参加しないのを嘆くのもまったくもって見当違いだ。
与えられた環境でただ必死に生きている人たちが、選挙にいかないのはその必死な生活の中に政治が入り込む余地がないからである。日々の暮らしの中に、政治は存在していないことになっているからだ。
もちろん、実際にはとても強く存在している。そしてそれを認知できないのは日本語が理由のひとつかもしれない。
しかし、このように語ることは日々の暮らしに対して何の意味もない。仮に天皇制と日本語が日本の政治腐敗の根源的な理由であるとわかったとして、いま食べ物がなくて困っている人や、いまお金がなくて夢を諦めている人にとっては何の救いにもならない。
日々の暮らしの問題を論ぜずにイデオロギーだけを語るのは無意味だ。与えられた環境で必死に生きた結果であることをまず認めなければ、話は始まらない。
世界は西洋化に向かっているのか?
視点を変えて世界はいまもまだ西洋化・近代化に向かっているのだろうかという問いを考えてみよう。答えは玉虫色ではあるが、例外とは言えないレベルでそうではない証拠が山ほどある。
まず中国だ。既に西側の親玉、米国のライバルとして完全に認定されている中国は、ご存知のように共産党の一党独裁体制を貫いている。改革開放で資本主義こそ取り込んだものの、表現の自由なしに経済成長を遂げた。そして、その一党独裁体制を変える気はさらさらなさそうどころか、2050年を見据えて国家運営をしている。
そしてロシアである。NATOは執筆時点(2024年3月10日)でウクライナ戦争でウクライナを支援しているが、戦争が長期化すればするほどロシアが有利な状況は継続している。ヨーロッパ人の10%しかウクライナが戦争に勝つと思っていないなどという調査さえある。
2022年、ウクライナのゼレンスキー大統領は西側のイデオロギーに訴える演説をして支援を獲得した。しかし今となっては、イデオロギーだけでは戦争には勝てないという当たり前の事実を思い知らされている。
そしてロシアはアフリカ諸国に手を広げ、旧西側植民地からの支持を集めている。
他にもトルコとか例はあるけどいったんこれくらいで。
こんな形で、むしろ西洋化が推し進めてきた世界秩序が壊れ始めている、というのが現在地だと僕は考えている。
つまり、近代化が唯一の理想だった時代は既に終わったのだと僕は解釈している。確かに冷戦が終わってしばらくは、東西の壁が壊れ世界はひとつになった感覚だっただろう。僕もそうだった。
この本は「まだ西洋化が足りない」と言っている。僕はむしろ逆のことを考えている。これからも西洋化に固執するのは、未来の日本にとって危機をもたらしうると考えている。
非西洋社会を理解せよ
僕がウクライナ戦争を機に感じた問題意識は「世界が完全に西洋化しきっていないこと」ではなかった。むしろ「世界は東と西にまだ分かれていることをちゃんと認知できていなかった」というのが僕の課題意識だ。
まず、世界にはそもそも西洋化を望んでいない国もある。中国がそうだし、ロシアもそうだ。旧宗主国に不満を持っているアフリカの国々もそうだ。
冷静に考えれば、別にそれで何も問題はない。その国に生きる人々が決めればいいのだ。ある種当たり前のことである。それはむしろ西側のかつてからある「民族自決主義」という考えマッチしている(これを提唱した当時のウィルソン大統領のホンネはそうじゃなかっただろうけど)。
だから、むしろ僕らが本当にやるべきことは僕らがきっと全く理解できていない中国やロシア、中東の人が大事にしていること、考え方を理解しようとすることなのではないかと思う。
最近儒教の本を読んでいたが、儒教の説明のために西洋哲学のアナロジーを使う記述が多かった。冷静に考えるとこれは不思議なことだ。なぜ儒教の初学者も西洋哲学は少しは知っているだろうという前提で話が始まるのだろうか?
これは我々が知らず知らずのうちに西洋社会を内面化し、そのリスペクトをする機会を得ているからだ。一方で逆に、既存の東洋の思想や中東のイスラームの思想を理解する機会が全く提供されていない表れである。
感想
著者は現代フランスに絶望すると同時にフランスに多大なリスペクトを払っている。それらは両立していた。
一方で、日本人に対するリスペクトも、非西洋社会に対するリスペクトも全く感じられなかった。なぜいま東洋思想を信奉してはいけないのかに対して答えなど存在しないのに。
もちろん、この方が勝手に東洋思想を嫌うことも自由だし、幕藩体制を嫌うことも自由だ。だが、それはイデオロギーでしかないし、この著者がフランス語を通してやっていることは西洋社会の内面化でしかない。
考察は面白いのに思想が残念な本だった。めちゃくちゃ面白いと思いながらめちゃくちゃムカついて読んだ本だったので、電車の中で読んでいる時の僕の表情はとてもおかしかったと思う。