わかったような、でもよくわからないような──そんな経験をしたことはありませんか? 言葉の意味はたしかに読めるし、文の形も変ではない。でも、それが何を言っているのか、うまく説明できない。
この文章ではそのような状態を「理解の境界」とよぶことにします。 この、わかったとわからないの間、つまり理解の境界にある現象について考えていきます。
「わかる」とはどういうこと?
まず、「わかる」ということは、ただ意味を知っているということではありません。 たとえば「水に塩を入れると、しょっぱい味になる」という文は、すぐに意味がわかります。 これは、わたしたちが実際に料理などで体験していて、「塩を入れる」という行動と「しょっぱくなる」という結果が結びついているからです。
しかし、「未来に聞こえてくるはずだった言葉の重さが、過去の私を静かに沈めていた」という文はどうでしょう。 言葉としては読めますが、すぐに意味がつかめるとはかぎりません。
ここには、理解の境界に立つ状態のはじまりがあります。
理解の境界とは?
理解の境界とは、「完全にはわからないけれど、まったく意味がつかめないわけでもない」状態のことです。 意味がふんわりと頭に残り、なんとなく気になる。でも、それがどんな意味なのか、うまく言葉にできない。 このような「わかりかけ」の感覚は、ふつうの理解とは少しちがう動きをしています。
たとえば、「夜の端に引っかかっていた感情は、朝になると手の届かない棚の奥に滑り落ちていた」という文は、比喩がいくつも重なっていて、ひとつの意味にしぼるのがむずかしくなっています。
「今日は、昨日とはちがう意味で静かだったね」という文では、「昨日はどんな日だったのか」という情報がなく、想像や知識を使って補う必要があります。
「どんな書物にも書かれていないことだけを集めた一冊の書物があった」という文は、一見すると自然に感じますが、この文が文自身を否定しているかのようです。
このような文は、読みながら「なにか分かった気がする」けれど、「それが何か」ははっきりしません。
この「はっきりしなさ」には、いくつかの種類があります。ひとつは、言葉の意味が多すぎてどれを選べばよいのかわからない場合です。ひとつは、話の前後や背景が足りず、情報が足りないことで意味が確定しない場合。そしてもうひとつは、思考が循環し、出口を見つけられないまま意味が組み立てられないような場合です。
どれも、わかることとわからないことのあいだにある「理解の境界」として、私たちの思考にふれるのです。
なぜ理解の境界が大事なのか?
理解の境界は、「理解できていない」わけではありません。 それは、わたしたちが「意味を考える」という行動をしている、まさにその途中にある場所です。 たとえ言葉の意味をうまく言い表せなくても、そこにとどまり、意味を探そうとしている時間があります。ここには、「すぐに意味をつかもうとする自分」と、「まだつかめないままの言葉」が出会っています。この出会いのなかで、わたしたちは「考える」ということの、本当の形にふれています。
このとき、読み手はただ言葉の意味を追っているのではありません。むしろ、自分のなかにある理解の枠組み──たとえば、どういう文を正しいと感じるか、何に注目して意味をとらえるか、文脈をどう想定するか──といった理解の道具を自覚的に使いはじめています。
しかし、理解の境界にある文は、それらの道具だけではうまく意味をまとめられません。理解の道具を動かしながらも、意味が安定せず、あちこちに分かれたり、ゆれたりします。その不安定な手ごたえこそが、「意味を考える」という行動が実際におこなわれているしるしなのです。
理解の境界とは、自分の理解のしかたを見つめなおしながら、それでもまだ意味にたどりつかないまま、手ごたえを探っている状態だといえるのかもしれません。
おわりに
理解の境界とは、「わからないことを拒まない」力でもあります。 そして、そこから新しい意味が生まれるかもしれないという、ひらかれた場所でもあります。
「わかりかけている」──その不安定さをおそれずに、そのまま向き合ってみる。 そこに、知ることの本当のよろこびがあるのではないでしょうか。