私は物欲が激しくよく「お金がない」「お金が欲しい」と思うのだが、最近「お金が欲しい」と思うのは正確じゃないぞと気がついた
欲は「お金」じゃなくて「美味しいあの食べ物」とか「知りたいことが書いてあるこの本」とか「こんな絵を描きたいからこの絵具」とか、「友だちに会って話がしたい」とか「京都に泊まりで行って色々なものを見たい」とか、具体的な物質や体験、つまり「もの」だ
それを手に入れたいから「お金が欲しい」と思ったり言ったりしてしまう。何故なら「お金があれば解決するから」!!!!
でもそうか?「お金」じゃなくてもいいんじゃないか?その「もの」を手に入れたいのでは?だったら「お金が欲しい」ではなく、ちゃんと、自分の欲しいものが欲しいと考えたり言ったりするのが良いのでは?
ということに最近思い至るようになった。最近か。最近だよ
そのくらい私の思考は「お金」に支配され続けている
私は幼い頃から「金で言うことを聞かせる」ということに敏感で、幼稚園の年長組の頃に先生にやってくれと言われた劇の主役をどうしてもやりたくなく登園拒否をしていたのだが、母が「あんたは千円もらってもやらないと言ってた」と後に言ったのだ。私は逃げ回って登園拒否までしたことはよく覚えているが、その発言は全く記憶にない。劇の主役は結局嫌々やった。六歳の子どもが「千円もらってもやらない!」ってなんだその、価値観!!
賃労働も「金を貰うために言うことを聞く」ことだと思っている節がある。賃金を貰うために自分の人生を生活を売るのだ。そうしなければまず生活できない。そして欲しいものも買えない
昔カウンセラーに「お金はただの道具だよ」と教わった。今でもよく思い出す。その道具に振り回せれながら。そう。「ただの道具」だ
ただお金があっても意味はない。お金は、「なにか」と交換する為の「道具」でしかない
私は「お金幻想」とも言うべきものから自由になれるのか?それは「金がなくても生活できる」と言う意味なのか、「ただの理想」なのか、分からないが
金がないと友だちにも会えないこの現実!!