中判と呼ばれるサイズのフィルムで写真を撮るのが楽しい…いや、楽しいと言うよりも、僕にとってはもう「癒やし」…ある種の「セラピー」になっている感がある。
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フィルムで写真を撮らない方にはどーでもいい話であろうが、ここ数年のフィルム価格の上昇は目玉が飛び出るようなレベルだ。
36枚しか撮れないフィルムが2,000円もする。デジカメを使って、2,000円のSDカードに保存できる写真の数を考えると常軌を逸している。
しかし、中判は更にその上を行く。最大でも16枚までしか撮れない。
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しかし…一度この中判フィルムで撮るという行為にはまってしまうと…もう抜け出せないのだ。
6センチ×6センチという、大きなファインダーをのぞき込み、磨りガラス越しにゆっくりと被写体にピントを合わせていくと…誇張でもなんでもなく、立体映像を見ているかのように被写体と背景が分離していく…。
美しい光が、ファインダーの中で広がって像を結ぶあの感覚。
貴重なフィルムを無駄にしないように露出を合わせ、絞りを決め、余計な振動を与えてブレさないように息を止めてシャッターを落とす瞬間…。
それはもう、神聖な物へ捧げる「祈り」に等しい行為とも言える。
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「祈り」とは、即ち「癒やし」だ。
己の罪を神に懺悔するのも、亡くなった人を悼んで手を合わせるのも、結局はあれこれとままならない自分自身の心に折り合いと区切りを付けて、前へ進むための儀式に他ならない。
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いきなり下世話な話になるが、カラーフィルムを現像する代金も含めれば、1枚撮るのに150円とか200円コストがかかるのが今のフィルム事情だ。
ほとんど道端に小銭を叩きつけながら写真を撮っているようなものであるが…しかし、その行為を「祈り」に置き換えるならば、コストは即ち喜捨であり賽銭に変わるのである。
お正月の初詣だけは普段10円のお賽銭も100円に…時に500円になるだろう。あの感覚を思い出してほしい。
僕らフィルムカメラユーザー…こと中判以上のサイズに魅入られてしまった者は、カメラという御神体を奉った神殿に日々詣でる巡礼者なのだ。
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更に上級者になると、総重量10kg以上にもなる大判カメラと三脚、そしてもはやロールしてすらいないシート状のフィルムを1枚ずつケースに入れて携え山に登っていく。それはもはや、巡礼者を通り越し、解脱を目指して励む修行僧の趣である。
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その祈りは、大いなる存在には一切届かないのかもしれない。
が、改めて繰り返す。
「祈り」とは即ち「癒やし」である。
今日のこの温かな光を、人々が織りなす営みの中に潜む影を、自分だけは満足いく形で写し留められたならば…。
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それはきっと、確かな明日への活力になる。
だから今日も僕は祈りと共にシャッターを切る。
「X(旧Twitter)でバズりますように…」
「宝くじが当たってフィルム代を気にしないで良くなりますように…」