自らの知識の未熟さ故に、物事における判断を留保することができるのは子供の特権であると思うようになってしまった。社会的圧力や自身に刻々と迫るライフステージの課題解決の必要性に駆られて、自分の浅はかさを理解していながら、判断を下せずにいられなくなったとき、人は大人になるのではないか。そしていずれはそんなことも抑圧され、行ってきた判断は経験に基づいたその人にとっての真理へと成り下がる。自分の周りの大人が検討の余地のある命題を臆面も無く口にしている様子は耐えられなかった。ような気がする。
私は大人へと差し掛かっている。自らの選好に基づいて投稿が表示されるSNSでは自ずと同年代、つまり私と同じような状況に直面している人々が大人に自然となったり、なろうともがいていたりしている様子が垣間見える。自己言及の矛盾や極端な思想に怯えること無く、果敢に言葉を紡ごうとする姿勢は、私には無い瑞々しさを孕んでいるようだ。
私には無い瑞々しさ。私は二元論がどうも好きになれない。(と言っている時点で二元論に囚われている)というのも、こちら側には対岸の事情は把握できないし、想像力を働かせることも難しいからである。したがって善悪、美醜、正誤と言ったどちらか片側につくことを決めずできるだけ中庸であろうとした。しかしどうか。中庸の立場でいようとすることこそが、中庸であるか否かという二元論に私を組み込み、極端な主張をさせているのだとようやく分かってきた。皆同じだと思ったが、何も決めずに大人になって戦い続ける意志も捨てた私は、二元論に勇ましく参画する彼/彼女の目の敵であり、弱い存在なのではないか。
分からない。ある立ち位置についてしまえば人は楽になる。苦しみは将来の不透明さや、自分の意思の所在が無いことなどに起因することが往々にしてある。大人へのもがきは帰属への渇望か。そもそも楽になることや傷付きたくないことは悪いことか。苦しみを甘んじて引き受けることは悪いことか。何にも分からなくなってしまった。腐食が進行する。