昨年の秋頃に、ハンドクラフトの急須を求めた。無念なことにそれは結構、いやかなり使いづらいものだった。蓋の位置がずれてお湯が漏れてきたりする。安物だから、というのもあるけれど。これは困ると思いながらも自分に鑑定の目がなかったことを省みた。例えば自分がたまにする誤字脱字も、きっとこのくらい作品を妨げるものなのだろうと。
ずれのある蓋をつくってる間は急須も求められないのだ。
日頃の自己への戒めを与えられているのか? と天恵を得た気持ちになっている場合ではない。反省が浮かびつつも思案する。とにかくお湯がこぼれるのだ。面白いほどに。
そして、本年も冷え込む時期になってきた。熟考した末に、憧れていた南部鉄器の急須を求める事にした。伝統工芸でも一等と呼べる著名な品。少なくともお湯がこぼれる心配がない。
当たりはずれも楽しいときは楽しいが、そういうことを言っている場合ではないのだ。南部鉄器なら確実だ。
一方で鉄器に憧れながら敬遠していた理由はある。相当メンテナンスに手がかかる。日々の動作に鉄器の急須が挟まる事でいらいらしたりしないか、と危ぶまれる。求めておいて放置するのも惜しい。猫に小判、豚に真珠となって、棚に仕舞いこむことになるのでは? 忙しい身でそれは、とためらいもあった。
けれど、一旦はそこにおいておくもの、という事象は急須でなくたって生活にたくさんあふれている。本だって作品だってそうだ。置いた時間が意味をなすこともある。そう思い至って迷いがなくなった。要は錆さえつかなければいい。そんな流れで取り寄せて、今に至り、三回湯をわかして乾かすというなじませる作業をした。
そして今、お茶の葉が開くのを待つ間にこれをしるしている。
この時間は断じて、悪くない。