今日あぴさんと話をしていて、それはあれだろうねーと、箱がひとつ、いっぱいになって、次にあたらしい箱が出てきたってやつだね。という、私の状態に対して言ってくれたことばが、なんとなくそれはどこかで聞いたことがある気もするし、でも実感としてあるものなのか?と思っていたのだが、たしかにそうだなと言えるかもしれないなと思い、それはけっこう大きな変化であると感じる。
数年前であれば、まだ自分が何も持たず、どうすればよいかわからず、きょろきょろと周りを見ては怯え(これは今でもそう)、経験値として持っているものがあっても決して自分には価値がないと本心では思っていた。できる限り取り繕い、がんばって恐れを隠し、でもできるなら己に引きこもってしまいたいという逃げ腰、わたしはそういう人間であり、手に入れたもの、培ってきたであろうことも、どうも空虚で、嘘で、自分の力ではない他人からもたらされたもので、それなりにがんばっていたはずなのに、さらに無力さや無知を恥じる気持ちから「私は何もしていないしー」という態度を取り続けていたように感じる。それは、しっかりとしている風に見える大人が、ある側面でとてもからっぽに見えてしまったり、ひどい人間関係を構築していたり、憧れを利用してびっくりするようなグルーミングの類を行ったり、あるいは常に被害者的立ち位置を持ち続け、それなりにひどいことをしているくせにユートピアをかたり、苛烈な態度や言葉を使って人をこき下ろしている事実に嫌気がさし、そういう大人になってたまるものかの裏返しで、成果があっても「おれがやった」と言えなくなっていくというか、本当は「こういうことをしたから褒めて欲しい」の塊なのに、承認欲求をみせては最後!と脳が血液全体を硬直させる性能でも持っているかのように、がんじがらめな心からの「私は何もしていないしー」なんだと思う。何をするにも恥ずかしく、生きていることがそもそも申し訳ないし、本来なら人生には達成や合格や努力や全力がなければいけないのに、自分にはそれがない。だからぜんぶたまたまうまくいったことにして、決してひけらかさないし、決して誰かを不機嫌にさせてはいけない、と、30歳ぐらいまでは本気でそういう成分が血に混ざっていたし、まあ今もあるかもしれない。
コロナ禍を挟んで前後いちど心がはげしく破裂して、街は壊れていくわ戦争は始まるわ、演劇はどしどし中止になるわで「被害者確定演出だな」と思っていたことで鬱状態になっていた。なんだよ被害者確定演出って。まあでもいろんなキツいこと理不尽なことが立て続けに起こり、なきべそをかきながらただじゃ死なねえとジタバタして飯を食い金をやたら遣い髪を変な色にしたりして暮らしていたらそういうこと関係なしに、箱はいっぱいになっていて、あんまり気づいてないけど多分ステージが変わるってそういうことで、人間関係がかわったり、やっていることが変わったり、生きる場所や考えていること、好きな人、好きな音楽、最近何のゲームをしたか、理想とする服装、何を食べているかとか、洗濯をどれくらいのスパンでするかとか、本当に細かな部分で、めちゃくちゃ変化している。でも、しばらくはこれでいくんだろうな、と思える部分もある。
好きなものが変わることが怖かった時期もあったが、人って生きていて考えてるんだから変わる。経典的な物語はもちろんちょっとあるけど、それすらも信仰対象にしてはいけないとさえおもう。というか人やものや作品を信仰対象にするのをもうやめたい、というのが最近のトレンド。完全にはできないけど、もう今熱い信仰とか熱狂が正直怖い。これだけしかない、みたいなことが。でもミーハーの風はもちろん吹いているし、憧れのフォロワーにいいねされるだけでスクショしてるバカさがかわいいとまで思う。
こんなことしか書けんの、作家として死んだかもしれんなとかまた視野の狭いことも、考えてる。
話を戻す!箱である。うまったということは「私は何もしてなかった」わけにはいかない。し、なんか無理矢理うめてない気がしてる。最近の小分けのお菓子みたいに傘増ししてないし、いろんなこと、あったけど、必要だったなと思う。それこそ血が沸騰して体が熱でくらくらし自動的に涙が出るみたいな思い出すだけでもきついこともいまだにぜんぜんあるし、なんで私なんだよ!もある。喉切れちゃうかも?でも大きい声で言いたい。なんでだよ!って。そういう指とかで直接触ったらジュージューしちゃう熱鉄球みたいなやつもゴロっとはいってるんだけど、でもそれも含めてとりあえずひと箱、うまったことをちいさく祝福した。箱に入ったってことは、過去だから、蓋が開いてそれらが悪さをする日があるかもしれないけど、でも自分うめた箱、できればこの数年を、あったかい犬を抱きしめる気持ちで蓋をあけられる自分でいたい。