石ころを見て泣く

tamsae
·

『宝石の国』を読んだ感想です(ねたばれがあります_すごく脱線もします)

これは仏教だ、と言う人もいたが、そうなのかもしれないしそうじゃないとも思う。神さま仏さまって、距離がはなれすぎてるせいで、きっと無我の境地にいて、辛さとか感じないんだろうってすごいから、だってわれわれの考えにも及ばないスケールの最強完璧だからって。そういう存在に「してしまう」加害性が、「宝石」という「物」の役割と妙にリンクして気持ち悪いし、どこまでも考えてしまう。「あなたの同胞を復活させる希みを叶えるためには多種族を全滅させる必要がありまーす」みたいなシーンも、本当に控えめに言って最悪。急になんて決断させんだよと。

でも同時にそれを感情的に解釈するのも人間だなと思う。

(あとさーー神の偶像を崇拝したりもそうだけど、たとえばゴッホが耳切り落としながら病みながら描いた絵をバチバチにデジタルアート☆って加工できちゃうこととかも近くて、そこには思慮がなく映える素材がある。病んで死のうが美しいものが残ればそれを加工するものが現れる、し、ゴッホだった者=骨は地に埋まりものをいわないから。AI美空ひばりにも似たものを感じる、なんか1万年後くらいに神になってる可能性すらあるじゃん 死んだ後の素材になるとしたらできれば思慮あるものに料理されたいけどそういうわけにいかない資本主義マーケット、私たちの写真とかネットにこうしてテキスト書くことももはや素材提供だもんね超脱線した)

その果てに、ラストの数話は石ころや目だまのようなやつを見て何度も泣いちゃった。ぷーぷ。役に立つとか何かに優れていて強いとか美しいとかではない、歌えばおどり、よろこぶ無機物たちの連帯。土器をこだわって作ったり集まって歌っていた原初の人間みたいな。やっぱ産業革命とかいらんかったね?とか言いながらmacに向かいHHKBのキーボード叩いてるドデカブーメラン。

石で思い出したけど、去年「エブエブ」を映画館で見た時も、岩のシーンでわたしは泣いていたなと思うのだが、地に落ちているちからなきもの、無機物のくせにやさしさとか、丸くつるりとかさらりとかしているあのすがたに、そして決して本当はしゃべったりするはずがなくゴロゴロしているからこそ、物言わぬ彼らになんらかの意味とか感情を抱くのかもしれない。エブエブの岩には目のシールが貼られていたが、もし目が無くても成立したらとより最高だったのではと妄想したりもしてたけど、あれは「人間用」のフォーマットだよなと気づく。顔があるということ。『宝石の国』の彼らが無性の美形揃いであったというのも、「人間用」の漫画のため、そして宝石というのが人間にとって「観賞用」に削られた石たちであることも含めて業、かんじざるをえない。

去年豊後高田の川から連れ帰ってきて大事にしている石をなでる。宝石の国を読んでしまった後なので、たくさんの同胞たちと一緒にいたのに、わたしという個体の欲望によって連れ帰られてしまった石、ごめんねと思う。石が丸いのは川を流れて削られたからで、それは自然が生み出した奇跡的シェープだけど、宝石はわざわざ採掘されて、人の手によって加工される。どのみち、どの石も、人間の手に渡る頃は、何万年の間に固まり、なにかの拍子にデカイ岩山からはぐれ、本来の姿から変化している。落下し掘られ削られており、なかなか大変な運命にある。

ダイヤモンドは美しいけれど、わざわざあるあるな形に磨かれる必要はあるんだろうかと中学生ぐらいに宝石の本を読んで思っていて、あれは光が入りやすいように加工されているから、宝飾の技術って本当にすげーって話なんだけど、でもその、「これがいちばん美しいです」と人間に決められたものを選ぶことへの抵抗が、少なからず今もある。そういいながら、大事にそばにおいている宝石もあるのだが。

フォスフォフィライトは人間の歯に近い、と誰かが言っていて、硬度がよわくこわれやすいというのも含め、誰の役にも立てない弱い者が、成長し変化し身体を入れ替え差し替えする状態は、本当に人間のようで、考えていることも人となりも当たり前に変化していくことを淡々と描かれていたのが無性に胸にささる。削られ、砕かれ、落下し、融合し、おきざりにされる。ただそこに感情的な演出がほとんどついていないので、変化に置いていかれてしまう感じがする。読み手の時間と描かれている内容が乖離しすぎているから余計にそう感じるのかもしれない。でもこの、さいごまでおきざりにされている「読んでいる人間」、という体感はどこでも得難いものだった。ほんとうにすごい長編。

12年の連載。費やした12年とは言わないけどしばらく引きずると思う。人は本当にすぐ作られたもの消費して忘れる悲しき生き物やね…(お疲れ様でした…!)