AIと書く、AIに書かせる。あるテクノロジーライターの1年

tarokappa
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公開:2025/11/15

周りには、まだあまり話していない。私が記事を書くとき、必ずAIと対話しながら書いているということを。いや、正確に言えば「書いている」という表現すら怪しい。AIに書かせて、私がチェックする。この1年で、その事実を受け入れるようになった。

2024年の年初、ためらいはあった。「これは手抜きなのではないか」「クライアントに失礼ではないか」。そんな思いが頭をよぎった。でも今は違う。ためらいは消えた。

なぜなら、読者は記事の質に満足しているからだ。編集者からの信頼も失っていない。複数の媒体から継続的に依頼が来る。事実は正確で、論理は明快で、読者の需要には応えている。AIを使っているかどうかは、実は誰も気にしていない。成果物の質が維持されていれば、それでいい。

ためらいは消えた。代わりに現れたのは、別の種類の不安だ。「このやり方は、あとどれくらい通用するのか」。

なぜClaudeなのか

数あるAIの中で、私が主に使用しているのはClaudeだ。選んだ理由は単純で、日本語での文章作成能力が高いからだ。自然な表現、文脈の理解、論理展開の構築。これらの点で、私の要求に最も応えてくれる。

Claudeには便利な機能がある。AIとの対話で生成した文章を、別ウィンドウで表示できる機能だ。私はそのウィンドウを開き、対話しながら文章を組み立てる。いや、「組み立てる」というより「調整する」と言った方が正確かもしれない。

正直に言えば、AIの出力は私が自分で書くより自然だ。文章的な洗練度が高い。これを認めるのには時間がかかった。でも、事実は事実だ。

取材メモの意味は変わっていない

取材メモの取り方は、以前から丁寧だった。インタビューの最中でも、できるだけ詳細にメモを取る。発言の要点や印象的なフレーズ、そこから派生した疑問まで、すべてノートに書き留める。

この習慣は変わっていない。変わったのは、そのメモが「自分のため」だけでなく「AIのため」でもあるという認識だ。メモが詳細であればあるほど、AIの出力は正確になる。事実関係やニュアンスを正確に伝えられるかどうかが、記事の質を左右する。

取材の現場では、私は記者だ。質問し、観察し、判断する。でも執筆の段階では、私は編集者になる。AIが書いた文章をチェックし、修正を指示する。この役割分担が、この1年で定着した。

記事を「書く」のか「作る」のか

文章を書く時、私はAIに質問させることがある。「この製品について質問してください」と指示すると、AIが質問を生成する。私はそれに答える。その対話を元に、AIが記事を組み立てる。

このやり方の利点は、自分の言葉で語れることだ。質問に答える形式なら、口頭に近い感覚で言語化できる。そして、その「語り」には現場の質感が残る。工場の音、経営者の表情、プレスカンファレンスの空気感。これらは私にしか感じ取れないものだ。

ただし、AIの提案が的外れなこともある。特に専門性の高い話題では注意が必要だ。ある企業の戦略について書いていた時、AIは業界の一般論と個社の特殊事情を混同した。これを見抜けたのは、その企業の歴史や文脈を理解していた私だからこそだ。

私が持っている業界知識、取材で得た一次情報、経営者との対話で感じ取った本音。これらは今のところ、AIにはない。だから私の役割はまだ残っている。ただし、「今のところ」という但し書きが付く。

レポーターという立ち位置

私は、ジャーナリストではない。独自の視点や深い論評を書く人間ではない。ましてや、アーティストでもない。文体そのものに価値を求められる存在ではない。私はレポーターだ。事実を正確に伝え、読者が必要とする情報を届ける。それが私の役割だと理解している。

「〇〇〇の文体」を読者は求めていない。読者が求めているのは「最新情報をいち早く理解したい」という需要だ。その需要を満たすことが、私の仕事のすべてだ。

でも、夜中にふと考える。この3つの職能の中で、AIに最も代替されやすいのは誰か。

アーティストの仕事は奪えない。村上春樹が書く小説を、AIが代わりに書くことはできない。読者は「村上春樹が書いた」という事実そのものに価値を見出すからだ。その人にしか書けない文章がある。

ジャーナリストの仕事も、すぐには奪えない。独自の視点で事実を解釈し、意味を見出す。それには人間の経験や判断が必要だ。まだ時間がある。

でも、レポーターは違う。事実を正確に伝え、分かりやすく整理する。この仕事は、本質的には標準化できる。読者は「〇〇〇が書いた記事」ではなく「正確で分かりやすい情報」を求めている。書き手が誰であるかは、二次的な問題だ。

AIが現場に行けるようになったら。ロボットがプレスカンファレンスに参加できるようになったら。AIが企業の公開データを分析して、私より深い洞察を提示できるようになったら。

その時、レポーターとしての私の役割は何になるのか。

1年前、私は「AIは私の相棒だ」と書いた。でも今は違う言葉が浮かぶ。AIは相棒ではなく、後継者かもしれない。ジャーナリストやアーティストには、まだ時間がある。でも、レポーターには、それほど時間が残されていないのかもしれない。

それでも書き続ける理由

正直に言えば、AIを使わなくても記事は書ける。これまでそうしてきたように。でも、AIという賢い相手と対話しながら書くことで、より早く記事が完成する。そして、読者の需要には十分に応えられる。

私が書いているのは、生活のためだ。それは間違いない。でも同時に、媒体の先にある読者の需要に応えることで、社会的に貢献したいという欲求もある。その欲求が満たされている限り、私は書き続ける。いや、「書かせ続ける」と言うべきか。

取材、執筆、編集。ジャーナリズムの基本は変わらない。変わったのは、それを実現するための手段だ。そして、その手段を使いこなせる期間が、どれくらい残されているかは分からない。

5年後、AIが私と同じことができるようになっていたら。その時、私はそのAIを使って何かをしているだろう。具体的に何かは、まだ見えない。でも、抵抗するのではなく、使いこなす側にいたい。

事実は正確に、論理は明快に、読者の需要には確実に応える。ただし、文章表現の完璧さや深い論評は追求しない。必要十分な品質を、効率的に、継続的に届ける。それが私の選んだ道だ。その道が、あとどこまで続くかは分からない。でも、今はこの道を進むしかない。

AIとの協働は、もはや選択ではない。必然だ。そして、その必然を受け入れた先に、何が待っているのか。それは誰にも分からない。私にも、AIにも。

2025年11月