3月20日 エンタメ日和

tasogarenikki
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公開:2026/3/24

楽しみにしていた映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の公開日。近場では車で30分くらいの劇場でやっていたけどほとんど吹き替えで、字幕はレイトショーのみだったため断念。片道1時間半ほど行ったところでちょうどIMAXで昼過ぎからやっていたのでそちらで鑑賞した。半日がかりだ。

             以下、ネタバレあり


先月原作小説を読み終え、満を持して予告編(どの動画だったか忘れた)を見たのだけど、そのときの字幕でロッキーの言葉が通常の語順に訳されていたのにショックを受けて、本編ではどうだろう?とドキドキしていたのだけど、ちゃんとロッキーでした!まず最初の登場シーンでそれがわかっただけでも一安心。意外だったのは、思ってたよりもロッキーがめちゃくちゃ俊敏な動きをしているところ。ヘイル・メアリーに入ってきたときにあまりにもウロチョロしすぎてて笑ったし、なんなら一緒に観てた人の多くが笑ってた。

正直映画初見の人が物語を余すことなく楽しむにはあまりにも多くのシーンがカットされていたと思う。ロッキーの生態や文化を理解するプロセス、意思疎通を図るための言語理解のプロセス、窒素順化したタウメーバを完成させるまでのトライアンドエラー、一度グレイスとロッキーが別れた後にロッキーを再び探すあの気の遠くなるような作業、ストラットの背景(歴史学専攻だったこと)、ビートルズの詳細、気候学者ルクレール博士の不在等々、物語を構成する重要なピースがいくつもカットされていたのは残念だった。あと、映画だけを見るとあまりにも事がうまく運びすぎているというか、スムーズすぎるという印象はある。科学の地道なプロセスが端折られすぎているからだろうか(とはいえ、門外漢のわたしには原作のさまざまな計算が合っているのかはわからない)。グレイスが主人公だから仕方がないとはいえ、グレイスだけが犠牲を払っているのではなく、地球に残っている多くの関係者もまたそれぞれの使命のために賭けているものや自らの倫理観に蓋をする場面もあり、それらもこの物語の重要なシーンの一つだったはず。

でもそれでもなお、映画にはそうした大幅カットの残念さを上回るすばらしさもあった。まず映像美!遠くてもIMAXで観てよかった。宇宙の描写が綺麗すぎる。ブリップAもどのくらい大きいんだろうと小説を読んでいたときに思っていたから、やっぱり映像で見るとその迫力に圧倒される。内部も美しかった。

あと物語の根幹である利他や善良さみたいな部分はきちんと描かれていたと思う。今の現実世界ではごく少数の愚かな人間の一挙手一投足に左右され、いとも簡単に戦争が始まっている。武力によって殺される、その何歩も手前に、わたしたちの日常が少しずつ侵食されつつある。日用品の価格が上がり、手に入りにくくなる。娯楽なんて後回しにされるのはコロナのときで証明済。医療へのアクセスもますます難しくなり、一部の富める人だけがますます利益を得て、格差は広がり続けるだろう。日常生活のままならなさへの不安や不満から湧く怒りは、その矛先を為政者に向かわせることなく、マイノリティに矛先が向けられている。身近な他者に手を差し伸べるどころか、そうした人々が「不正」に利益を享受し、本来自分に割り当てられるはずのものまで奪われていると言い出す始末。そんな利他や善良さからは程遠い現実をわたしたちは今生きている。

宇宙にたった一人残されたもの同士のロッキーとグレイスはあまりにも異なる生命体なのに、それでもなお互いの目的のために互いを命懸けで助け合おうとする。わたしたちはどれだけ異なっていても他者と手を取り合うことができるというメッセージは、その対極にあるかのように思える世界だからこそ強く響く。

グレイスが宇宙で目を覚ましたとき、徐々に記憶を思い出しながら(徐々に思い出しているということが初見の人は理解できてるのかな?)最終的には自分が志願してこのプロジェクトに入ったわけではないということを思い出す。自分は自分が思っていたほど勇敢な人間ではないということを悟ったときのライアン・ゴズリングの表情…!しかしすべてを思い出してなお、地球を救うため、ロッキーを助けるために行動するグレイスの善良さ。原作でもこのシーンは好きなシーンの一つ。

ロッキーと再会以降、エリドに行くことになるまでの描写もあまり映画では描かれず残念だったけど、ラストシーンはすごくよかったな。あとそのほかにめっちゃよい!ってなったのは、ロッキーとグレイスのハグ(ロッキーがハグの意味を理解していないところもいい笑)やロッキーのなかなか辛辣な言葉遣い、原作ではなかった地球側のラストシーン(ストラットがグレイスの善良さを信じきったところも、グレイスからのメッセージを見てストラットが微笑んでいるところも!)など。

原作には原作の良さが、映画には映画の良さのある作品だった。やっぱりバディもののSFは最高!


                🚀🪐

帰宅後、今度はこちらも楽しみにしていた『虎に翼』スピンオフドラマ『山田轟法律事務所』。

            

                 🐅🪽

 

色々と言いたいことはあるのだけど、あらためて日本国憲法第14条ってめちゃくちゃいいですね。

すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

憲法は現実をなぞるのではなく、現実をよりまともにしていくための理想であり、宣誓でもあるんだなとドラマを見ながら考えていた。綺麗事だと言ってしまえばそれまでかもしれないが、綺麗事で終わらせないための継続的努力を要する、努力の先にあるものが示されているのが憲法なのかもしれない。

本編である『虎に翼』もすばらしかったが(ちょうど最近1話から母と再視聴しているが、何度見てもすばらしい)、本編が寅ちゃん視点から描かれた世界である一方、スピンオフは徹底してよね視点の世界で、同時期の物語のはずなのに見えている世界が全く異なるという点がまさしく現実的だった。

よねの姉がこういう形で登場するのも納得だった。「パンパン」「オンリー」と呼ばれたかのじょたちは(当然ながら)好き好んでああやって街頭に立っているわけではなく、それがかのじょたちに残された生存方法であったということをきちんと認識する必要がある(と同時に、常に生存が脅かされていた存在であることも)。たとえ口ではポジティブに語っていたとしても。「性の防波堤」という言い方はまさに戦中の「慰安所」設立の建前としても言われていたことであって、それが形式上「戦後」と言われる時代においてもまかり通っていること自体、「戦後って何?」という問いを投げかけている。何が終わったことにされているのか、何も終わっていないじゃないか、と。よねが「いつかあんたたちのおぞましさに世界が気づくときが来る」と啖呵切ったシーンで、たしかに届いている、気づいていると思いつつ、一方でそれらを国家として謝罪することも、反省することもなく、現代においても似たような事象はごまんとあり続けていることに腹がたつ。

怒りたくて怒っているわけじゃない、は本当そうだよね。現実がこんなにクソじゃなければわざわざ怒らない。怒り続けるのもエネルギーが必要で、ときどき嫌になってすべてをシャットアウトしたくなるけど、刻一刻と状況は悪化していて、休む暇もくれないのかとムカついてくる。

現実を変革していくことは多大な時間を要することであって、一朝一夕にはいかないのはよくわかっている。こんな些細なことでさえ変わらないのかと絶望することも多い。でも絶望することは簡単で、怒り続けることのほうがずっと難しい。だから一人でやるんじゃなくて、たくさんの人とやる。一人が絶望しても、別の人が怒って声をあげられたらまだきっと大丈夫。絶対に戦争をやめさせたいし、戦争に巻き込まれたくもない。戦争はいったん始まったら終わるのは本当に難しい。たとえ国家間で終わったことになっても、わたしたち一人一人の日常においては戦争はそう簡単には終わらない。それはよねさんが直面した世界がまさしくそうだったのと同じように。急に和やかな日常が戻ることはないし、絶対に戻らないもの、戻らない存在もいる。抱えていかなければならないものもたくさんある。だから絶対に戦争を起こさせてはいけないし、今起きている戦争は少しでも早く止めなければならない。心によねさんを。正しく怒り続けられるように。