『龍が如く』のプレイ順についての漫画が回ってきた。
私はこの作者、亜月ねねさんのエッセイ漫画がかなり好きだ。まず絵柄が可愛らしいし、繊細で細やかな感性であったり、時折描かれるマニアックな知識も作風と裏腹で興味深い。一般の人には縁遠い、いわゆる夜職の実態を綴った漫画ももちろん面白いものだ。夜職や整形といったトピックを扱った後発の漫画との違いは、身もふたもない残酷さを無闇に強調しない作風にもある。あくまで自然で淡々としているのだ。だから読んでいて食傷しないし、この人は一体どういう人なんだろう…という興味が惹かれる。ねねさん!ぼ、僕は、貴女のことが…!まさにキモおじの感想そのもので恐縮の至りだが、在職中もおそらく人気だったのだろうと思われる。
この漫画を読んで面白く思ったが、同時に「このゲームはできないなあ」とも思った。一作のゲームをクリアするのに必要な時間は恐らく、最低でも20時間はかかるだろう。それがシリーズを通して何作もある。それをやるだけの時間は自分にはないというわけだ。
「自分の時間が欲しい」と、いつも頭の片隅で思う人生だった。仕事選びにもその志向が明確に反映されていたし、思いが高じすぎたあまりニートにまでなったことがある。だがニートになった後、布団の上でスマホをいじりながら、不思議なことにやはりこう思うのだ。「自分の時間が欲しい…」。
時間があるとかないとかいうのは、妙なことだ。空気がそこらじゅうにあるように、本当は時間もいつもいつでもあるはずだ。それが自分に属していないとは、どういうことなのか。義務上の拘束が理由として思いつくだろう。仕事が理由で恋人と会えない男性がいたとする。仕事中に彼は「自分の時間が欲しい」と思うことだろう。だがその恋人との約束も気乗りしないもので、男性は本当は映画を見たいという状態だったらどうだろうか。やはり「自分の時間が欲しい」と思うだろう。つまり時間を使う対象の問題ではないのだ。スマホをいじりながら「自分の時間が欲しい…」と思う愚かなニートがこの世にはいるくらいなのだから。義務と捉えてしまう自分の在り方の問題であり、いいかえれば主体的であるかどうかだ。時間のあるないより前に、意志であり計画が先立つのだ。
だから、「自分の時間」を確保しようとすると、逆にどんどん「自分の時間」がなくなることになりかねない。他人や義務や責任が少しでも関わることを自分と切り分けて「他人の時間」に割り振れば、「自分の時間」の側にはほとんど何も残らないのは当たり前のことなのだ。なんでも自分ごとと捉えた上で、それに尽力することを惜しまない。恐らくそうすることが豊かな人生を生きるコツだ。想像してみてもらいたいのだが、田中角栄が「自分の時間が欲しい」と言うだろうか?いや言っていたかもしれないし、それは知りませんが。
『龍が如く』をやる時間も、本当はある。やろうと思えば20時間など生活から切り出せないはずはない。だがそれに尻込みしてしまう。もったいないと感じてしまう。ゲームへの没入もまた怖い。1日2時間に留めれば、たいした負担にもならない上に10日でクリアできる。算数的に計画的に考えればそうなのだが、そうはなってくれないことはこれまでの経験から自明だ。ゲームをし、それが面白ければ、生活は確実に破綻してしまうだろう。そんなものにお金を払う気にはなれないのだ。
つまり視野狭窄であり、それに加えて自制心が欠如しているのだ。言い換えると、筋金入りのケチであり、それでいて生まれついての浪費家だ。時間に関するこの感覚は当然、お金にも共通している。だから私がコストを投じるものは、全てとは言わないもののたいてい、少額・短時間で行える、あまり面白くないものであり、結果的にそれらに膨大な資源を費やしてきた。𝕏にハマっていたことがいい証拠である。