いいと好きは違う。こう書いてふと今思いついたが、これは専ら音楽について言われることだ。不思議なことに、他の分野の趣味や創作でこのような物言いを聞くことはない。「いい音楽と好きな音楽は違う」。これはしばしば聞く主張だが、「いい映画/小説/漫画/ゲーム…と好きな映画/小説/漫画/ゲーム…は違う」とは、記憶の限り一度も聞いたことがない。強いていえば食事だろうか。高級フレンチは確かにいいが俺はカップ麺が好きなのだ…といったような。もしかしたら絵やイラスト、広告とかについてはそういうのがあるかもしれないが、不案内なのでわからない。読んだ方、もしよかったら教えてください。
すでに書きたいことから離れている気がするが、まあいい。なぜこのような違いが生まれるのだろうか。思うに音楽と上であげた他のジャンルの違いは「ながら視聴」が出来るか否かだ。映画や小説は鑑賞に一定の没入、生活からの離脱が必要だが、同じような姿勢で音楽を聴くことはあまりないだろうし、もしそうするなら音楽を聴くではなく音楽と「向き合う」といった表現がとられる気がする。街中を音楽を聴きながら歩く人は珍しくもないが、本を読みながら歩いている人がいたらそれはほぼ確実に二宮尊徳だ。
視聴時間が短いことも、音楽とその他を分ける大きな違いだ。特に昨今の楽曲は2分半~3分半の範囲に収まるものが多いと思うが、3分で終わる映画は多分ないだろう。もちろん分野によっては1時間を超える楽曲はあるし、アルバムを通して聴くならまとまった時間が必要だ。だがそのような楽曲は例外的だし、アルバムはいつでも中断できる。映画や小説を途中で止めたなら、確実に続きが気になることだろう。だがアルバムや、場合によっては楽曲を途中で切り上げても、続きを聴かずにはいられない!との強い思いに駆られることは珍しいと思う。
もう、最初に書こうと思った話から完全に話題が逸れてしまっている…が気にせずに続けると、要するに、といって話をまとめたがるのがおれの悪い癖なのだが、日常生活に溶け込んでいるか否か、鑑賞の機会が多いか否かが、音楽とその他のジャンルではまるで違うのだ。だからこそ趣味や嗜好というものがそこには強く現れてくるし、思想やライフスタイルを音楽に沿わせる人々すらも中には表れる。もちろんこれには「ジャンル」という、群的な特徴ないし区分が音楽ではかなりはっきり現れていることにも起因すると思うが、映画や小説を参考にライフスタイルを構築することはあまりないだろう。例外的には村上春樹があげられるだろうか。三島由紀夫に強く影響を受けた人々、通称三島イストのような存在がいたら、かなり怖い。付け加えると、最初の段落で挙げた「食事」はまさに、日常生活そのものである。
ここからが本題だが、すでに1000文字超も書いたため、書くのが面倒くさい。頑張って書こうと思うが、気になるのは音楽の好き嫌いとよしあしは本当にちがうのか、よしあしを定める基準は本当にあるのだろうか、ということだ。
まず直感的には、「ある」と言いたい気がする。ビートルズやスティーヴィーワンダー、マーヴィンゲイやビーチボーイズの楽曲は間違いなく「いい」。そして例えば、マカロニえんぴつや怒髪天などの音楽は疑いもなく「悪い」と言いたい。だけど、もしこのような判断が本当に客観的なものなら誰しもが同意しているはずだ。実際にはそのような同意があるとは言い難い。ビートルズをマカロニえんぴつよりいいという人は少なくとも日本においては少数派だろう。
もちろん、「よくはないが好きだ」という判断があり得ることは確かだ。それは例えば「あらびき団」を見た時のような気持ちで、不思議とお笑いに多いと思う。もちろん面白くはあるが、それと同時に「まあ、なるほど」とか「気持ちはわかるよ」といった感慨が起きるものだ。音楽を聴いてそのような気持ちを抱くことは、あまりないと思う。(それまでの手癖から離れた、実験的な曲には思うかもしれないが)。好きなアーティストの曲を聴く時に、「決してよくはないが、好きだ」というトリッキーな判断をする人がいるとは思えず、単純に「いい曲だ」と思っているのではないか。先ほど「あらびき団」を引き合いに出したが、これは技術水準の問題でもないと思う。我が子の習い事の発表会に立ち会った時に「よくはないが、あくまで個人的には好きな演奏だ」と思う親はいないだろう。いたら怖い。やはり単純に「いい」と思っているのではないか。
ここで持ち出されるのが、「よしあしと好き嫌いは別」という理屈ではないか。お前らがいいと思う〇〇は、本当はよくない。つまり普遍性を欠いた個人的な趣味であり、好みだ。それとは別の「よきもの」がこの世には存在し、それは経験を積んだ感性によって判断でき、その判断は一致するのだ、というわけだ。だがその前提も疑わしい。評論家による全年代のアルバム作品のランク付けがあり、定期的に改訂されるが、最も保守的とされるローリング・ストーン誌における定番の1位はビートルズの『サージェントペパー』だった。それが2020年度における1位はマーヴィンゲイの『ホワッツゴーイングオン』となっている。もし評価に厳密な意味での客観性があるとするなら、発表されて長い時間が経つアルバム同士の順位づけが変わることはあり得ないだろう。
よしあしの判断に根拠を与えるものがあるとするなら、それは系譜ではないか。先に挙げた順位づけの変動もまさにそのようなものだろう。2010年代はヒップホップの時代だとよく言われる。賛否はあるだろうが、売上の市場規模でロックをヒップホップが上回ったのは確かだ。また共同体や中間団体の融解とSNSの全景化はヒップホップ的ライフスタイルと親和的だし、BLMなど社会的な異議申し立ても盛んである。『ホワッツゴーイングオン』はいわゆるニューソウルに分類される音楽だ。それ以前の大衆歌謡的なソウルとは違い内省的な自己表現や社会的主張を含み、アルバム単位で聴かれることを志向している。マーヴィンゲイはニューソウルの始祖というわけではないが、『ホワッツゴーイングオン』はニューソウルの最も代表的なアルバムだ。それが全年代の最も重要なアルバムに選ばれることは理解できる。
音楽のよしあしの評価が系譜によって定まるとするなら、その評価には一定の時間が必要だ。つまり保守性や権威性を強く帯びることになる。またそのような評価が仮に定められたとして、そのよしあしは音楽を聴いた感動とは別のものではないかと思える。なぜならそれは今・ここにおける個人的な感覚だからだ。だから音楽のよしあしをあえて盛んに言いたがる人は、雑誌メディアなどの規範性を強く内面化した人なのではないかと思える。そうしたメディアが盛んだった時代に生きていた人は今では40歳以上になっていて、ゆえに音楽のよしあしをうんぬんする人は若い人には少ない気がする。もちろんいろいろな聴取経験を通じて初めてよさがわかる音楽というのもこの世にはあるわけだが…そのような音楽「こそが」よい音楽というわけでもないだろう。
では「いい悪いと好き嫌いは違う」といった言説には何の価値もないのか。規範性や権威性を帯びた「老害」の発言なのか。そうではないと思える。いいと好きを区別する必要は、個人的にはあまりないと思う。いい曲は好きなものだし、好きな曲はいい曲だとごく自然に思う。好きに主観性を、いいに客観性や公共性を割り当てたところで、好きな曲、個人的にいいと思う曲が他人にとっていいかどうかはどうでもいいことだ。問題は「嫌い」の取り扱い方だと思う。「嫌い」を「よくない」と順接させない自制や節度が大事なのだと素朴に思う。長々と書いたが、マカロニえんぴつをよくないと簡単に言ってしまわないことが大切なのだ。