天気の悪い夜に「読もう」と思い出すのは大概「死者の書」だ。とはいうものの一晩では読み切られないから、朝になって太陽のさんさんと照る日中に持ち出して行く。行くのだけれども、思うようには読み進められない。だんだん夕方になって暗いカフェか地下鉄の中へ乗ると少しは読む速度が上がる。そのうちに夜になって誰もが寝静まるような頃になると、これはもう面白くて仕方がないようになっている。自分にとって「死者の書」はずっと雨に閉塞する夜だ。雨の降りしきる夜の中をしとどに濡れながらこちらを見ている、幽鬼的で陰惨な存在である。
自分は子供時代を大塚英志で育ってきたから、折口信夫はもとより柳田國男は当然として、ラフカディオ・ハーンだとか、あるいは李香蘭だとか、そうした人々が人生に染み付いている。けれどもそうしたある種の先入観を差し置いても、折口の書くものが好きだと思う。たぶん、自分の構図の中に映画を取り入れている、そういう自覚のある人が書くものが好きなのかもしれない。このあたりのことは、加藤守雄の手記の中にもあった。
私が、『死者の書』の文章の速度や場面の構成・展開は、劇の呼吸に近いと言うと、
「劇じゃないね。しかし、映画の影響はあるかもしれない」とおっしゃった。
「主人公が途中で、ふいに何処かへ消えてしまうのは、きっと映画の影響だよ。いぜん書いた小説でも、やっぱり、主人公が途中からいなくなってしまったからね」
出典:加藤守雄「わが師 折口信夫」朝日新聞社, 1991年, p148
学生時代、日本文学だろうが何文学だろうがそういうものについて学ぼうなどというのはまっぴら御免だと思っていたのだけれども、今なら国文的なところへ行って、卒論は折口信夫をやりたいというのも選択肢に上って来る気がしている。あの頃わざわざ聴講権を得てまで民俗学の授業へ一所懸命に出たのだけれども、それでいて私の学校時代は全部ソ連に集約していった。懐かしくも何とも無い。ただそういうことを思い出すとき、学食というものを時々食べたくなるだけで。