自分が生まれ育った家のそばへ行くことがあまりないからだろうか。自分が通った学校の制服を着ている学生を見かけると、未だに同級生の後ろ姿と見紛うことがある。それが「錯覚だ」とふと我に返った時、私はいつのまにかここでの生活からすでに遠く、あまりにも遠く離れすぎてしまったことを思う。見間違えた同級生の現在の姿も知らなければ、ここでの記憶を古い過去として塗り重ねられるほどの生活もなく、要するに記憶が「あの時」のままでずっと止まっているのをボックス席の窓から見ていた。
飲み物を飲みながら笑い合う学生たちをいくらかホームに残して、電車は高校前を発車する。私は進行方向に背を向けて座っていたから、どんどんと遠くへ引き離されていくホームをずっと見ていた。それが豆粒ほどになって見えなくなると、今度は更に見知った風景が入り込んでくる。冬の夕方、暗くなっていく風景、友達の家、塗り替えられた屋根、テナント空きの事務所、その全部を見ながら「そうだったっけな」と思う時、過去と現在は二重の層になって「ここ」にある私を透かす。
ドアの開閉ボタンが押され、誰かが乗り、誰かが降りていく。しかしそれらのすべてが隣の車両かその向こうの、遠い世界のことだった。私は他に乗客のいない車両のボックス席におさまりながら、自分はもう目的地にたどり着くこともなく、あるいははるかに通り過ぎてもまだこの電車に揺られていて、それが終わることもなくずっとずっとそうしていられたらいいのにと考えていた。