考えるということ

瀬崎 鵜
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新年度になり、しばらく閲覧にとどめておいた「しずかなインターネット」を自分でも書く方に使っていこうかと、そういう気持ちになっている。去年の秋ごろに日記的なものを記録することを思い立って以来、ブログとクラフトに残してきたのだけれども、ここを借りて流しておくことでいつかなんとなく誰かに読まれることがあってもいいかもしれないと思っている。ときどきは.mdの強烈な引力に抗えないかもしれないが、その合間でも「しずかな」という凪の中で暮らしてみることにする。

普段のことはだいたいObsidianに都度残している。これは個人用ローカルTwitterみたいなもので、誰に見せるわけでもないから思いついたことを片っ端から書きつける用途に重宝している。自分は16性格診断でいうところのINTP-Tなのだが、この診断が分類する通りあれこれ思案を巡らせることが人生の全てなので、アウトプットしてはインプットし直し、時折AIに意見を求めてはまとめ直し、結果として何ができるというわけでもないが、そういう行動自体が楽しい。そしてそういうことが「楽しかった」という日記を、まあここに書いているわけである。

岡野弘彦が折口信夫の回顧録の中で、折口は日記をつけなかったが代わりに手帳へあらゆることを書きつけていたと書いていたけれども(折口のみならず)そういう逸話を見るにつけ、この人は今の時代にあったら所謂ツイ廃になっていたのか、それともやっぱり自分だけのノートを持って延々書き連ねたのか、どうだったのだろうかと考える。その是非や実際のところよりも「あの人が今の時代を生きていたらどんな感じだったのだろうか」と考えるのは楽しい。楽しい、そして少しの寂しさ。

意味もないことを書いて、書いて、考え、考え続け、書き続けている。結局のところ私の目的は創作ではなく、思考することそのものにあるのだと思う。その結果として何かを作り出すことにはあまり価値を見いだせないのかもしれない。けれども何かを作り出すことで、また別の思考が開かれることも理解している。物事は考えていられるうちに考えなければならない。手は動くうちに動かしていなければならない。立ち止まったら終わりだ、私は。まだ崖の下は見えなくていい。明日にはそこへいるかも知れなくとも。