嫌いなもののこと

瀬崎 鵜
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嫌いな映画の話をした日、後になって「やっぱり『嫌い』というのは言い過ぎだったのかもしれない」と思うのが自分のよくないところだと思っている。嫌いなどというのはとにかく短絡的な物言いに過ぎず、そう思うにしても単なる意見の相違だとか、自分の受け取り方が捻くれているだけだという可能性は大いにあるのだけれども、自分でそれを認めて仕舞えば私は私でなくなる気もしている。或いはそうやって折れて見せたところで自分が変わるでもないのだから、何かを嫌いなら嫌いで、いくらかは好きな部分もあることを覚えておきたい。

とはいうものの、自分の嫌いなものについて人と話し合うことが好きだ。めっぽう好きと言ってもいいかもしれない。好きなものの共有は容易いが、忌避するものはそれより一段難しい。こちらがそれとなくにじり寄ることはできるが、面と向かって話し合うにはそれなりに体力のいることであり、お互いにそういうつもりでなければ、いつでも気安くというものでもなかろうと思う。その意味では「嫌いな上司」の話題で永遠に盛り上がるのは、いつまでもそうした話題のナイーブさに向けたチュートリアルであり続けるのかもしれない。

しれない、それから……喋りが冗長になってきている、何も考えずに書くとこういうことになってくる。自分で自分が何も考えていないことがわかる。眠ってはいないつもりで、いつのまにか眠っていたんだろうか? ただ掴んでいたはずの夜。見つめているダーク画面がふいにライトモードになって、勝手に朝になっていた。