アパートの203号室(おれの部屋だ)の前に大きな蛾がいた。思わず身体に力が入る。耳の後ろをぞわぞわと嫌悪感が這う。蛾は大きな触角を少し寝せていて、それはまるで怒られた犬の耳のようだ。黒い目も伏せられて、身体を縮こませて体育座りをしている。四本の腕で脚を抱え込んで。背中でたたまれた翅から少し見える梟の目玉。また嫌悪感が走った。足をどんと踏んで音を立てる。蛾は触角をぴり、と立てこちらを見る。夜そのもののような黒い目玉を蛍光灯の光が照らす。美しい少年のようなかんばせは全く動じていない。もう一度足を踏み鳴らすと、蛾は立ち上がって翅を広げた。四つの目玉がこちらを射抜く。背中を汗が伝う。蛾は何事もなかったかのようにてのひらほどの大きさになり、ひらひらと夜の空へと飛び去っていく。蛾が座り込んでいた場所には鱗粉が付着していて、それが蛍光灯の光でぎろりと光った。