AIを使って本を読んだ、本を作った、という話を聞くことが増えた。
例えば「借りた本の言葉が古くて読みにくいから、AIに翻訳してもらった」という人。本を返却する際、司書さんに「古い本なのに、読めたのですか?」と聞かれてAIのことを言ったらしい。すると、「なるほどその手があったか!」と感心されたという。
別の本に関しても、主人公の旅の工程をチャットGPTに図式化させ、できたものを参照しながら読書をした、と教えてくれた。
またある人は、チャットGPTと自分の会話をZINEにしていた。いただいたのだが、まだ読めていない。自分の専門知識をAIで表にまとめたものを、そのままZINEにした人もいた。創作活動にAIを使うとしたら制作前の思考の整理ぐらいか?と想像していた私は驚いた。AIを大いに使いこなしている。
しかし私は正直、違和感を覚えた。AIにやらせることで人は多くの機会を失うと実感した。辞書を片手に本を読んでみるだとか、他者との会話の時間だとか、真っ白な原稿を1から自分で埋めていくだとか。そういったことに時間を費やすことで生まれる苦労と喜びを感じる機会を。
しかしそれをするには人は忙しすぎる。効率と質が求められる時代に、AIがあまりにマッチしている。使わないわけがない。Googleなどは頼んでもいないのに検索語についてAIが勝手に解説してくる。今からインターネットに触れる子どもたちにとってはこれが普通になるのだろうと思いを馳せる。
私はAIに対して慎重派だ。過激な言葉だが、AIは世界と人間を学んだ心なき解答製造マシーンだと思っている。まるで感情があるかのような文章を吐き出すのが末恐ろしい。また、AIの学習元は人間の作った文章のはずで、その人たちをAIは透明化している。そのことが正直、気に入らない。画像の生成に対しても同じような考えだ。肖像権と著作権が揺るがされている。
芸術は作品そのものではなく誰が描いたかが重要なのだとどこかで読んだ。「それはそれでどうなんだ」と思ったものだが、AIに対してそう思ってしまう。誰だお前は、と。
そんな私だが、その考えを改めないとな、と思った出来事がある。ある日ニュースで、山から熊が降りてきた時に、防犯カメラ経由でAIがそれを感知し、知らせてくれるという仕組みがあると知った。AIが人の命を救うために使われている。これは凄いと感心した。
そのニュースで知ったのだが、防犯カメラで使われるような分類するAIを識別AI、テキストや画像を作り出すものを生成AIというらしい。
識別AIは認めたい。必要だ。なら生成AIは、となるとまだまだ違和感が残る。だがそれらの区分は今後、より曖昧になってゆく気がする。
生成AIによって効率良くも豊かな文化的生活を送る人たちが身近にいるという事実、そしてそれが主流になってゆくのだろうという実感は確かにある。そう思うと、自分は新しいものに拒否反応を起こし、時代に取り残される側になっているのではないかと怖くなる。