最近、一部の人たちの間で人を叱る動画が流行しているように感じる。自分ごととして観ることで学びになる部分もあると思うし、周りが叱ってくれない、周りの人たちがその人を上手に行動変容させる方法を知らない、といった環境にある人には特に価値になるかも知れない。
一方で、叱る大人の真似事をする人が増えてきたようにも思う。そして、リスクを感じる。
先に言っておくと、本当に叱ってくれた人の言葉は、自分の未来永劫の糧になると僕は思っている。
思い起こせば中学時代。僕には今でも恩師の一人と思っている先生がいる。その先生は当時所属していたバスケットボール部の顧問の先生。僕はその先生に「お前は全力にやっているつもりなだけだ。やっていない」とよく叱られていた。当時の僕は、緩み癖と言いますか、動きから弱音が見られがちだった。だからこそ、「お前は全力にやっているつもりなだけだ。やっていない」と先生は何度も注意してくださっていたのだと思う。
最近では僕の方から若い方々に、例えば家庭教師として関わる一部の子供たちに同じことを伝えるようになりました。僕の場合は「宿題は出さないし、終わったらダラダラして良い。けど、この時間だけは真面目にやろうな」からの「できたじゃん!やるじゃん!」。また、自分にも時々問いかけてる。仕事に取り組んでいるとき、私的に社会活動へ参加している時など。
頑張ってる感だけ出して責任感が不足しがちな時って、あると思うんですよね。無自覚のうちに。
本人が悪いというよりは、気付きにくい状態にあると言った方が適切かも知れない。僕もそんな時がある気がする。だから時々、「お前は全力にやっているつもりになだけだ。やっていない」のではないか?と自分に問いかける。本当の意味で叱ってくれた人の言葉は、10年経っても20年経っても自分の糧になる。
なぜかと問うまでもなく、豊富な人生経験をもって本当に自分の事を考えに考えて仰ってくださった言葉だからだと思う。「昭和のオヤジ」と揶揄されたり、ご本人も冗談半分に揶揄されることもありますが、どちらかというと「豊富な経験に固められた、良い意味での硬い言葉」だと思う。本当に叱ってくれる人の言葉って、相応の人生経験や深い親切心に基づくものであるからこそ是とされるのだと思う。
一方で、こうした叱る大人の方々を、カッコ良さや人の上に立った感を期待してモデリングするのは危険。
特に若い人。マウントと罵倒が混ざっただけのものに成り下がりやすい。相手は悩みや課題を抱いている場合が多いだろうから叱ってて気持ちが良いかも知れないし見栄えよく映るかも知れないが、それは言葉の暴力と紙一重。「お前はクズ」「お前はゴミ」と同じような言葉にそれっぽい理屈をつけているだけかもしれない。動画の中の人は、例えアドリブであったとしても演出の側面も含まれると思うようにしている。
叱るという行為は諸刃の刃。相手のことを考えに考え抜いた末の手段として用いたい。