飢えている状態への抵抗?

tellsun
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InstagramやX(旧Twitter)で、つい自分の悩みや不満を投稿してしまう人っていますよね。そんな方々に関する一つの視点をお届けしたい。

「今日も大変だった」

「やっかいなお客さんに疲れた」

「自分はもうダメだ」など

こういった投稿から、投稿者は他の場所ではこの心の声を吐き出すことができない状態なのではないかと察することができます。本来であればこうした投稿はある種のSOSと捉えた方が妥当であり、直接会える間柄の人であれば話を聴いてあげるとスッキリさせられるかも知れない

.....といった話はもちろんですが、もう一つ、頭の片隅に置いてみて欲しいことがあります。もしかしたらその人は、

「飢えている状態」なのかも知れない

具体的には、栄養不足、睡眠不足、生命活動としてのコミュニケーション不足などが挙がります。心が貧しいという意味というよりは、その根底にある要員として、本来の意味である生命活動として飢えた状態なのではないか、といった意味。

ここで突然ではありますが、ドラマやアニメなどで遭難するシーン想像してみてください。雪山や密林、不時着した無人島などを舞台に遭難する話。こうした話って、鉄板的な流れがありますよね。①最初は新たな生活として楽しもうとする、②少し慣れてきた頃にちょっとしたトラブルが起こる、③大きなトラブルが発生してチームに亀裂が生じる、④その後もトラブルが立て続けに起こる。時には取り返しのつかない結末が待っている...etc.

今回はその中でも、③について思い浮かべてみてください。「俺はもうたくさんだ!もうお前たちとはやっていけない....!!」みたいなセリフが出てきそうなシーンですよね。

そして、このセリフを発する人物を想像しながら、冒頭に戻りSNSで悩みや不満を投稿をする人を改めて想像してみてください。遭難して感情が乱れた人とSNSで病み投稿をする人。この二人って、精神状態の根本にあるものは同じだと思うんですよね。両者ともに

飢えている。そして、本人なりの生物としての抵抗反応である

遭難した時には不安がつきまといます。食料の残りが限られるためいずれ生命活動が難しくなる危機感がストレスとしてつきまといます。だからこそ、何か抵抗しなければと感情が乱れてしまう。SNSで悩みや不満を投稿をする際も同様です。

「人との関わりに疲れている」

「安定した収入が得らず先々が不安」

「生活は成り立っているものの、常に孤独感を感じる」など。

対人関係に頭が疲れ切っているならば、それは実質的には遭難した時の極限状態と同じ頭の状態なのではないだろうか。一寸先の収入に不安があるのだとすれば、それも食料が限られる遭難時の極限状態と同じなのではないだろうか。常に孤独感に苛まれているとしたら、共同生活や子孫反映というDNAに刻まれた人としての当たり前から隔絶されている状態にいるのではないだろうか。いずれも、

生命活動として必要なものに飢えているのではないか。

 

悩みや不満を投稿をする人には、衣食住が満たされているイメージや周りの人と楽しく過ごしているイメージは湧きづらい。どちらかというと、一人ひきこもりがちな人、内心で常に気を配って交流している人、一人が好きだと言うものの内心は孤独感を感じておりそれを隠すために言い訳をしている人。これらの方がイメージしやすいですよね。

具体的な対応方法に関する話は避けますが、もしネガティブな投稿を発している人を見かけたら「もしかしたら何かに飢えているのではないか?」と、相手の状況を想像を頭のほんの片隅で想像してみて欲しい。おそらく相手だけでなく自分も少しストレスが軽くなることと思います。

病み投稿は飢えへの抵抗なのではないか。少し満たされるだけで、病みから明るみへ変わるのではないか。

なお、解決は意外にも簡単だったりすることも多々あります。

@tellsun
ふと思ったことを手記のように書いています。長文や思考系の文章はみんなのSNSのタイムラインを汚す気がしたのでこちらに。 エビデンスの有無やジャンルの統一感については悪しからず。メッセージは返すようにしています。