空き地に建てられた建設予定地の看板も、5年もすれば跡形も無くなって、突然生えてきた物でさえ、今では当たり前のように感じる。
未熟だなんて、永遠を保証すると言っているようなもので、そんな発言に納得するようなことはないのである。
そんなことを根底に置いているのは、私が直向きな姿を知っているからである。
蛻の殻となった箱と、形だけの看板も、昔から住んでいる私ならわかる。
勿論、どんな物が入ってたかだとか、バックヤードの事情だなんて、今となっては知る由もないし、今も尚、全てを知っているのはその自己だけである。
それに、道化師を溶け込ませた世界で他者に形成させれば、それ相応のものになるだろうし、乗っ取られてしまうのも容易なことであろう。
本職といえる人生を全うできるのは、自分しかいないのだから。
それで得られた自己は賜物なのであろうが、拐われた方の行き場はあるのだろうか。
全て上書きできるなら話は別であるが、少なくとも私はそうは思わない。
長く感じる季節変化の後にようやく見えるような道が、今ある儚さを物語り
液体から固体に、時間を掛けて状態変化をするように、鎮まるその時まで温もりを保ち続けて
揺らぐのを、ただ覆い被せて、夜が更けていくのを感じさせなくする。
飛んでいると思った鳥も、まだ認めてほしくないなら、せめて殻は割っていると言いたい。
せめて、ここだけは外界の刺激で確立している姿を、己の解釈で押し込むことがないように
何も、失望はしないし、何も、求めてはいない。
ただ、自我から露頭する笑顔を望むだけだ。