土門蘭の死ぬまで生きる日記を読み終えた。
オンラインでのカウンセリングを通してうつ病の治療をしていく日記のようなエッセイ。
共感できるところもあれば、そうでない部分もあって良い意味でも悪い意味でも感情を引っ張られてしまったのでゆっくり、少しずつ読んだ。
印象的だったのは、土門さんが子供の頃に自分の居場所を火星にあると思い込み火星にレポートを送り続けることで何とか生き抜いていた記憶を振り返るところ。
自分も、地球が住みづらい、地球じゃないところだったら上手くやっていけるかもしれない。と思って、実際短歌を書くときにはよくそんなメッセージを書いていた。
現実逃避することで、自分を守っていた土門さんの気持ちは私にリンクする部分が多かった。
それからエッセイの中では、認知行動療法だったりマザーリングなど知らなかったことがいくつか出てきた。
ちょうどその部分を読んでいる頃に、落ち込むことが重なって泣いて、泣き疲れて眠る事が多かったので、実践したいと思ったけれど泣いている時はほぼ混乱状態に近いのでそんな余裕がなかった。難しい。
それでも、ひとつだけ読んでわかったことがあった。それは、死にたいはあまりにも広義な言葉だから死にたいに近い言葉を探しましょうとカウンセラーの本田さんが言ったところ。
たしかに、心のモヤモヤをコントロールしきれなくなって、突発的に死にたいと口にしてしまっていたが、自分にとって死にたいとはどういう意味なんだろう。
死にたいというよりは、今の辛さから解放されたいに近い。では、その辛さは何だろうと考えたときに、辛さ=人から失望されたくない。がっかりされたくない。嫌われたくない。と怯えて生きることが私にとっての生きる辛さな気がしてきた。
だから、友達もあまり作りたくないし、外に出て人とも接したくない。がっかりされたくないの対象がすごく広くて、例えば人生で二度と会わないような店員さんや通りすがりの人にもがっかりされたくないと思い、怯えてしまう。
そこから来る恐怖と、いっそのことみんなが私のことを忘れて欲しいという気持ちから死にたいと言ってしまう気がすると、初めて気がついた。
だからといって、何も解決はしていないし、相変わらず訳もわからず泣いてしまうし、人に怯えながら生きているけど、エッセイを読んで少しだけ自分がわかった気がした。