台風でテニス中止。天気ムカつく!
悲しいって何だろうか?という話をしていたが、やはり私はムカつきと捉えやすい。
この日にテニスをしようと言った個人や自分に対するムカつきでは当たり前になくて、天気ムカつく、気候変動ムカつく、気候変動に無関心な政治ムカつく、といった、主に構造へのムカつき?が多いと思う。
昨日深夜にチ。やひゃくえむの作者の「ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ」という漫画をすすめ?られ読んだら面白かった。
ざっくりあらすじは、
母子家庭で育った高卒・非正規労働者の19歳の青年が主人公。経済的に恵まれない環境にいながら、自分が社会の構造によって搾取されているとは捉えず、「自分は本当はもっとできるはずなのになぜ人生がうまくいかないんだろう」と自分を責め、自己啓発やマルチに手を出しては騙されている。
ある事件をきっかけに裕福で高学歴な女性と出会い、自分との環境や知識の差を強く意識するようになる。そんな中「FACT」という陰謀論コミュニティと出会い、最初は「こいつらヤバいだろ」と反発するものの、そこで「自分が悪いのではなく、社会そのものがおかしい」という別の見方を知る。FACTから「自分たちは真実を知っている」「君は特別だ」と認められることで、社会への違和感や劣等感、承認欲求と陰謀論が少しずつ結びついていく。
社会の構造的な問題は実際に存在する一方で、それを「だから裏で誰かが仕組んでいる」という物語に結びつけることとは別の話。その間にあるものや、人が物事をどう捉えていくのかについて描いてる作品。
単純に「陰謀論を信じる人はバカ」という話ではなくて、
主人公が置かれている状況には実際に社会構造の問題がある。だから「あなたが悪いんじゃない、社会の仕組みに問題がある」という指摘自体は間違っていないと思う。
ただ本来ならそこから政治や社会制度、格差の構造について考えていくところを、「社会がおかしい」→「じゃあ裏で誰かが全部仕組んでいる」「自分たちには共通の"敵"がいるんだ!」という陰謀論に結びつけてしまう。その危うさが描かれている。
そして「裕福・家族仲が良いから何も苦労していない」「学歴がある=学歴差別をする側、優生思想側」みたいに、社会の構造をそのまま個人に当てはめてしまうと、結局それも別の単純化になってしまう。
普通に恵まれた環境に生まれた人にも、その環境の中でしか生まれない問題があって、それは無視されるべきものではない。(哀れなるものたちへの批判はかなりこの感覚になった)
貧困層の人間も当たり前に一人ひとり違う。
世界中の人間一人ひとりと話していくなんて現実には難しいから、「こういう層の人はこう」「あっち側の人はこう」と単純化されがちだ。
でも実際に個人と個人で話してみると、そんなに綺麗に分類できるものでもない、というのは実感としてあるよね普通に。
主人公は自分の人生がうまくいかない理由を最初は「自分の能力が足りないから」と考えていて、そこに別の説明を与えられると、今度は「社会に仕組まれているからだ」という方向に認識が変わっていって、どちらも「自分はこういう人間で、こういう理由でこうなっている」という、自分自身についての決めつけ?というか、
おい今までの自分の考え選択無視すんなよ!みたいなことになってて、
自分自身ですらそんなに客観的に見られないんだからましてや他人や社会全体を客観的に見るなんてもっと難しいことだよなとは思っただいぶ。これは主人公がというより人間の構造として誰でも陥り得るよなてかんじ。
昨日ちょうど、「あなたは恵まれていて体力があって元気だから、社会問題について考えられるんだよね」「あなたは私と違って偉いもんね」みたいに、ある種突き放されることがたびたびある、という話をしていた。勿論置かれている環境や経済状況、体力や余裕によって考えられることや見えるものに違いが出るのは当たり前だと思う。社会構造の問題も当然ある。
でも、「自分とは違う環境にいるからそんなことを考えられるんだね」「苦労していないからそこまで社会問題に注視できるんだね」と相手を属性ごと切り離してしまうと、その人が実際に何を考えているのか、どういう経験からそう考えているのか、という部分を見なくなってしまわないか?と思う。それって結局個人について考えることを放棄してない?とも思う。
「裕福だからこう」「貧困だからこう」「恵まれているからこう考える」「苦労しているからこう考える」と分類してしまえば、人間の傾向を理解するのは簡単だけど、その時点でもう個人と個人の対話ができなくなる。
世界中の人間一人ひとりと話すことなんてできないから、ある程度「こういう層」と括って考えるのは仕方ない。が、実際に目の前にいる人間までそのカテゴリーだけで説明しようとしたら、その人自身の考えや経験を聞く必要がなくなってしまう。
この作品を読んでいて、そこもすごく面白いと思った。
社会構造をちゃんと見ることと、目の前にいる個人を見ることって、どちらか一方じゃないんだよなと思う。
社会構造があるからこそ、その中で一人ひとりがどう考えて、どう感じているのかを見ないと、結局何も対話できないんじゃないか。
「自分とは違うから」で切り離してしまうのは、ある意味かなり思考停止に近い気がする。
哀れなるものたちで「こんなのフェミニズムじゃない」という批判をたびたび見たときも、似たような違和感があった。
あの映画の主人公は階級的にはかなり恵まれた環境にいるし、貧困や経済的な制約の中で生きる女性とは全然違う。でも、だからといって「この女性の解放の物語には意味がない」とはならないと思う。
世の中には、お金を自由に使えず、学ぶ環境もなく、もっと別の形で抑圧されている女性がたくさんいる。それはもちろんそう。ただ世界全体に女性蔑視が残っている以上、裕福な女性には裕福な女性の問題や、その環境の中でしか生まれない身の危険もある。
裕福であることと、女性として抑圧されないことは同じではないし、経済的に恵まれているからといって、その人が感じる苦しさや、選択肢を奪われる経験が消えるわけでもない。貧困層の女性だからといって全員が同じ経験をするわけでもない。
貧困女性の物語も必要だし、裕福な女性の物語も必要。
「この作品が描いているのは裕福な女性の経験だから貧困女性の現実とは違う」という指摘と、「だからこの物語には価値がない」は別の話だと思う。
このような物語ばかり蔓延っていて貧困女性を透明化しているのならばその批判は分かるが、そもそも女性の解放の物語が少なすぎる現状なのだから。
結局、貧困層/富裕層、恵まれている/恵まれていない、という属性だけで人間を分類してしまうと、目の前にいる個人が何を感じて、何に苦しんで、何を望んでいるのかが見えなくなる。
ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へを読んでいて感じたのも、まさにそこだった。
社会構造の問題はちゃんとある。でもその構造の中にいる人間を属性だけで説明することはできない。どの立場の人間にもその人の選択がある。 それを「あなたは恵まれている側だから」「あなたは苦労していない側だから」と切り離していたら、各々が感じている問題について話すことすらできなくなるんじゃないか。
そういう意味でも、この作品は「自己責任か社会のせいか」「貧困層か富裕層か」という二元論に回収させない物語なんだと思った。
まじ誰も嘘つかないでください社交辞令しないでくださいテキトーこかないでください逃げないでください自分の事脚色せず日記書いてください自己分析podcastしてくださいて感じ。