「宗教と哲学って何が違うんですか?」
職場の後輩が無邪気に聞いてきた。確かに哲学はその歴史上、宗教と切っては切れない関係がある。
デザイナーは答えの出ない問いに向き合い続ける、哲学的営みから逃れられない。パブリックなテーマに関するデザインであればなおさらだ。
デザイン倫理について考える仕事をきっかけに、僕は哲学に興味を持ち、大学の哲学講座に通い詰め、岩波文庫を買い漁り始めた。
しかし、ページをいくらめくっても内容が全然わからない。気づいたら「全然わからない」と呟くのが趣味みたいな状態になっている。
それでも聞きかじった知識で先ほどの後輩の質問に答えてみる。
「一番の違いは、答えがあるかないかかもね。宗教は生き様とか信仰とかに答えがあるけど、哲学は答えを探す営みそのものみたいな」
自分でも合っているかわからない。ふんふんとうなづきながら、後輩はさらに
「つまり哲学はネガティブケイパビリティってことですか?」
と聞いてきた。
ネガティブケイパビリティ。答えの出ない、どうにも対処のしようのない事態に耐える能力。確かに哲学はネガティブケイパビリティかもしれない。鋭い質問をする後輩だ。
しかし無視できない違和感も覚えた。
ビジネスで使われるネガティブケイパビリティには、「わからないことを既存の枠組みに当てはめて無理に理解しようとしたり、安易な解決策に飛びついたりしないようにしようね」という意味合いで使われがちだ。
この考え方の根底には、いつかこの課題は解決されるはずだという希望を感じる。
哲学はこの希望を持たない。というより、課題解決という目的から出発していないため、前提が違う。そもそも完全な理解ができると思っていない。その希望の有無がまず違う。
また、「わからないこと」に対するスタンスも、ネガティブケイパビリティと哲学では違う気がする。
ネガティブケイパビリティにおける「わからないこと」は、耐えるものであり、苦しいものとして捉えられている。眉間にシワを寄せて深刻な顔で議論しているイメージだ。
しかし、僕の周りにいる哲学者や哲学的探究をしている人は、基本的に陽気な人が多い。いつも笑っている人たちばかりだ。
哲学において、「わからないこと」は楽しむものなのかもしれない。
そこには、「わかったかも」と「自分の考えは間違っていた」を繰り返し、その探求の楽しさと、絶えず破壊される自己概念へのある種のマゾヒズム的楽しさがあるのだろう。少なくとも僕は、その二つが楽しくて仕方ない人間である。
このわからなさの受容態度の違いは、そのまま思考の深さに繋がる気がしている。「早く呼吸がしたい」と苦しみながら潜る人と、「泳ぐのが楽しくて仕方ない」と楽しみながら泳ぐ魚のどっちが深みに至れるのかという問題だ。
ちゃんと哲学を勉強してきたわけでもない、ただのデザイナーの意見だ。どれだけ妥当性があるのかわからない。
ただ、デザイナーが扱う問題に絶対の正解があることは稀である。である以上、デザイナーが持つべき能力はネガティブケイパビリティではなく、哲学的思考なのかもしれない。
ちなみに後輩には、ただの雑談の場で深い議論を展開しても仕方ないと思い、「ネガティブケイパビリティってなに?」と知らないふりして質問を質問で返してみた。
「俺もわかんないっす!」
すごい元気に言われた。なんなんだお前は。こいつもまた哲学者なのかもしれない。