自由というものをどう定義するかと言う問いに対して、「主観的な感覚」以外で回答できないのではないかと思う。
学者は、科学的な話を持ち出し自由意志は存在しないと語る。事実、腕を動かそうとする際に、脳波を調べれば動かそうとする意志の脳波より先に腕を動かす箇所の脳波が先に出ていることが証明されている。しかし、伝達スピードの差により0.2秒ほど意志の方が早い。結果、人は自分の意志で腕を動かしていると錯覚している。
しかし、そんなことを言ったところで何の意味があるのか?錯覚とはいえ、自身で感じている以上、それは自由意志と呼んで良いのではないのか?事実、錯乱しながら人生を生きる人は少なくはないし、広告で見せられて、他人が欲しいものを自分が欲しいものと取り違えて、それを自由意志と信じて生きる人がいる。むしろ、その人の方が多い。彼ら彼女らは、自由な人生ではないのか?
そんなことはない。客観的に見ればそうかもしれないが、自分の人生を客観的に見ることなどはできないのだから、彼ら彼女らが主観的に自由を感じているのであればそれは自由と言える。客観的に見ることが大切と言う言葉は、人は主観的な判断をするからであり、客観的に見ることが良い選択をできるからである。
学者は細かいことを言うが、それは彼らの仕事であり、良い人生を生きようと考える人にとって些末なことなど気にしなくてもよい。正直、自由意志の有無の問題を知らずとも自由を感じる人生を送ることはできる。
では、どうやって自由を感じる人生を送ることができるのか?様々な定義はあると思われるが、個人的には「人生をコントロールしていると感じられること」ではないかと思う。
ちなみにfriend(友人)は、free(自由)から来ているとされています。友人を作るには奴隷ではない、つまり自由であることが必要だったからと言われています。
「人生をコントロールしていると感じられること」は主観的であり、客観的にどれほど不自由に見えても関係がありません。例えば、本人は数ある選択肢から自由に好きに選択したとします。結果、回転寿司を選択したとします。しかし、他人からお金があったら回らないお寿司も選べたのにと言われるかもしれません。しかし、当の本人がそう思わなければ自由な選択と言えます。一方で、そう他人を見下した人が回らないお寿司を食べていても、もっと高いお寿司屋さんを選択できないと感じる場合は、不自由と言えます。
高級なお寿司屋さんを知っていながら、自由意志で回転寿司を選んでいる場合もあるでしょう。しかし、本人が選択肢の結果、金銭的な理由(お金がないなど)ではなく、あえて回転寿司を選んでいる場合、より自由と言えます。なぜならば、金銭から解放されて自由な選択をできる人は希少だからです。これがお金持ちでありながら、不自由な人がいる理由です。不自由なお金持ちは、お金があるがゆえに使わないともったいないと思っているのです。お金があっても使わない選択肢を持つはずなのに、お金を使わないともったいないと思うのであればそれは金銭の奴隷です。彼ら彼女らが金銭を使っているのではなく、彼ら彼女らは自らが金銭の媒介となり消費しているのです。
そういう意味では、自由とは最低限の衣食住のラインをクリアした場合、精神の問題と言えます。自由とは心の豊かさであり、物質主義的な豊かさではありません。全てを金銭や成功と言った客観的指標で測るのは心の貧しさです。心の豊かさから来る自由は金銭を超えます。自由とは、強い意志があるからこそ達成できます。意志が弱ければ欲望をコントロールすることはできません。欲望に従う人生は隷属です。隷属は自由ではありません。だからこそ、自由は難しいのであり、多くの人が手にできないものなのです。