身体的記憶、あと絵という言語

hoya
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昨日ものを考えてる時、自分の中では心配と妄想は近い領域かもなーと思った。それで中身はぜんぜん似てないんだけど、構造が似てる話として、わたしの中では意味と価値が近い領域にあることを思い出した

それ自体は1年くらい前に会話の中で言った言葉だったんだけど、最近になってああこれはそれだなと思う瞬間が多くて、自分の中に概念が根付いた結果だなあと思う

こういう根付きは多分人並みよりかなり遅いほうだと思う、動きが習慣づくことって全然ないし、単純作業数時間やったくらいじゃ全然身体に染みつかないし。ダンスの振りも身体じゃなくて頭で覚えるから、いつも左右がわからなくなる。

この「身体で覚える」を他人がけっこう普通にやっていると気付いたのはここ数週間のことだ

それで、ああ、単純作業をこなす時間が多い業務は一生やらんようにしよう。と思った。倉庫業務とか、清掃とかキッチンとか 向いてない奴が楽しくもない向いてないことをやるの、無駄でしかない

少しずれると思うけど、絵もそんな向いてないなーと思う、まあこれは楽しいから続けるんだけど……見たことを言語化しないまま直接活かすとかできないし、1回やった手順や描き方も1回だけで消えていくんで、全部意識しないと進歩しない 意識したところだけしか進歩しない

自分の人生は「気付けない」に集約してきたなあと思う、気付けたなら取り入れることも改めることも案外できる、少なくとも取り繕える。でも気付けないし、気付けなかった部分を無意識で拾う能力もないから、気付けなかったら本当に何も始まらない

自分が絵の勉強を熱心にするのはそのせいで、気付くために言語で説明してもらっている。言語で説明せずとも、見るだけで感覚的に拾える人はたくさん居て、そういう人は絵の才能があるんだろうなあと思う。

絵の情報を絵の情報のまま受け取って、そのまま絵に取り入れられる。ネイティブだなあと思う。わたしは1回日本語に翻訳してもらわないと理解できないので、絵のことを日本語で理解して、それからまた絵にしている。

効率化なんかは現状を一旦概念にして、それを弄り回していく行為なので得意なんだなーと思う、システムを作るのが好きだ、システムを改善するのが好きだ。まあそういう仕事をたくさんできる人になれればいいなと思う。

元旦は元旦らしい話を多少したのに今日はもう概念の話しかしてなくて草だ、まあ私らしくていいんじゃないか、知らんけど

価値と意味の話全然できてないね、まあ「価値と意味って近いなと思う」でおしまいだから同じ内容をひたすら繰り返すしかやることないんだけど。

まあまた今度