ちゃんと言葉にして言い聞かせないと己をなかなか戒められないな、と思う。感情や感覚の弱さと関係があるのかないのかは分からないけど、ちゃんと形になっている言葉の方が明確に権力を持ってる証左ではあるだろうなと思う。
大抵いつも脳内で喋ってる人が居るので、その人に喋っていただくのがかなり効く。
「今あんた正常じゃないんだから、さっさと寝なさい」「先延ばしにしないって言ってましたよね」「今考えてることは全部悪い妄想だからね」そういうことをいつも喋ってくれる。あんま嬉しくない人もいるかもだけど、愛や優しさであると思う。自分はこういう類の優しさにずっと救われてる。
肯定より許容が好きだとずっと言っている時期があった。肯定の孕む暴力性が嫌だとも。今になって考えると肯定も許容も暴力性は孕んでいるし、なんなら許容が暴力に働いた時の方が残忍だろうとも思う。でもまあ肯定の方が否定を強く意識させるのは確かなのかも。肯定はエネルギーを使うので、なくなりやすい。
「面白くない」という絶望は堪えがたい。最も面白かった時の快楽を知っていれば知っているほど、それがなくなった時の飢餓には耐えられない。
肉体的な快楽を感じにくいたちでよかったと思う。概念でしか生きてないからまだこうやって破滅しないで生きていられてるけど、酒やセックスで快楽を得られていたらそれに人生の多くを持っていかれていたかもしれない。
結局自分は達成者になりたいんだなと諦観のような再認識をして、あ~はいはいタイプ3……となった。なんでもいい。成し遂げられる者になりたい。こういう欲望はNe強者と相性が悪い。すぐに飽きる。大きなことは何も成せない。でも何も成せない自分は認められない。
自分は減らす方向に行きがちだなあと思う。人生は全部減点方式だし、めんどくさければすぐ切り捨てるし、それで後悔したこともほとんどない。無意識的になんでもかんでも手出すから、もしかしたらそうやってちゃんとバランスを取っているのかもしれない。
何が言いたいかというと、楽しいから楽しくなくなった時しんどくなるのであれば、楽しくしなければいいんだねという話だ。8年前、私が冬季うつを拗らせていた時に真っ先にやったのがこれだった。感情が揺れ動いたら、理性で戒める。反射的な心の動きを力で抑え込む。
それが良い選択だったのか今でも分からない、でもあの頃の自分にできることはそれしかなかったと思う。実際感情の起伏はかなり減って、どれだけ楽しくても理性が足を引っ張る代わりに、そのあとしんどくて死にたくなるなんてことは劇的に減った。
感情に身を委ねるとろくな言動をしないし、理性があとから叱責するので揺り戻しがひどい。
今なら感情に対する脆弱性だったとわかる。
今は正直何が楽しくて生きているのかわからない。趣味でやっていることはみんなそれなり楽しいけど、べつに無くなっても困るものではない。趣味の楽しさがわからなくなった途端にそれらを無理なく継続できるようになった。お笑い草だ。私は何も楽しまない方がいい、その方が達成できる。
自分の生き様を他人に見せつけるために生きている。それだけのために生きていると言ってもいいかもしれない。電波も届かない山奥で猫と一緒に過ごして、月に2回買い出しのために里に降りる、みたいな生活をしたら、たぶん一ヶ月も経たずに死ぬと思う。何の魅力も感じない生活すぎる。他人が居ないと何の意味もない。他人から見られるために、他人に評価されるために努力しているんだから。
と言いつつも、自分がクリエイターやインフルエンサーではないことははっきりと自覚している。自己顕示欲は確かにあるが、他人への向き合い方が違いすぎるので、クリエイターにもインフルエンサーにもなれないなと思う。ネゴシエイターなんかが近いかもしれない。
この世のエンタメすべてと相性が少しずつ悪いし、人間とは目と目を合わせて接してしまう。楽しさを感じさせるよりも不快感を感じさせない方が得意だ。縁の下の力持ちで生きていくスキルツリーをしていると思う。またここでも相性が悪い。人生ずっとこうだ。
まあこういう矛盾こそがわたしの成長を促してきたんだろうなとも思う。わたしが他人の矛盾や葛藤を愛するのは、それが人を大きく成長させると信じてやまないからだ。また達成や価値の話をしている。
自分は生きていられるだけの価値があると自分で認められるようになってから、劇的に生きやすくなった。それまでの人生は地獄で、姉の下位互換にすぎず、無価値であるという事実から目を逸らし続けて生きていた。
実際下位互換であり、無価値だったと思う。今あの力関係に戻ったとしたら、余裕で鬱になると思う。あの時同じ土俵で戦うのを早々に諦めてよかったとも思うし、もう少し粘っていたらよかったのにとも思う。思えばあの時期に全ての執着がなくなった。執着にずっと苦しまされていたからだ。解放だった。
今ではちょっとくらい執着できた方が良いんじゃないかと思うときもあるけど、あったらあったでまた嫌な思いをたくさんしただろうから、さっぱりなくす以外の道はなかったのかもしれない。
いろいろ語ってしまった。べつに感傷的になっているわけではない、多分これも自己顕示欲の現れだ。やろうと思っていたことの出鼻をくじかれて、先方に連絡を入れて対応待ちのあいだ、暇だからと書いていた。どうせならもっと明るい話を書いたらいいのに。まあ書きたかったから仕方ない。
昨日は記事の更新を忘れた。ずっとゲームをしていた。あとグランツーリスモを家族で観た。まあ楽しい一日だったのでいい。毎日継続がこの私にできる気はもとからしていなかったので、遅かれ早かれ来る抜けた日がたまたま昨日だったということ。こうやってがっかりしないように自分に言い聞かせるのも、継続のためになる。