ドラマ『不適切にもほどがある』の話

ちどりん
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宮藤官九郎に向けられる『もっとポリコレられるのに、そう書かないの残念!』って物言い、なんかマジで鬱陶しいな

って書いたのが2月18日。4話おわったぐらいのタイミング

話は「アダルトビデオをヘラヘラ楽しんでるのに、自分の娘が彼女たちと同じ土俵にたつ(正しく同じ土俵にたつ)ことにイライラするのは、AV女優のことを持ち上げてるようで、モノとして見ているんじゃないですか?汚いものとして見てるんじゃないですか?」って問われた市郎が、2024年の職場でのセクハラガイドラインについて高らかに歌うっていう流れ

このあと「娘をレイプする父親もいる」「娘がいない男にはわからない」ってドラマの文脈をフル無視した難癖がSNSにわんさか出てきて「なんじゃこりゃ?」ってなった

女性をモノとしてではなく、だれかの娘、だれかが大事に育ててきた個人として扱おう

娘のほうにも自分を大事にしてね、大事に思ってくれるひとを悲しませないでって付け加える

この流れが許せないらしい

世の中には父親という男が憎くてたまらんひとがいるんだなって感じ

「相手をモノではなく個人として扱うということは、自分のこともモノではなく個人として大事にするってことになる」っていうメッセージに父親をからめると、家父長制度の肯定になるらしい

あのドラマの性質上、父親をだすだろ母親死んでるんだし

それをふまえて娘が父親に「自分の人生を生きろよ」って送り出すっていうの素晴らしい構造だと思ったけど、どうやらこのタイミングでクドカンは≪叩いていいモノ≫になっちゃったからボロクソ叩かれてる

わいは舞台を履修してないので、ドラマとか映画を軸で語るけど『ゆとりですが、なにか』からのクドカンの進化を感じてる

『ゆとり』で社会に対する視線みたいのを得た宮藤官九郎が『監獄のお姫様』で女性の連帯を描いて、『いだてん』で社会への視線を強めて、『俺の家の話』で家父長制度を『季節のない街』で社会的弱者を書いたあとに、『不適切にもほどがある』をだす感じ

「あいつらはダメだからって切り捨てても、そこにいるんだよ!」っていうのを、ずっと書いてる

ずっと進化してる

進化しすぎて、振り落としてる感じがしてる

振り落とされてる側は、クドカンが後退しているように見えたんだろうなぁ

ルッキズムがダメなのはわかってる、頭ではわかってる、それはさておき、顔の好みがドンズバの男に言い寄られたら心が揺れる!どうしたらいい!

「あなたを板東英二だと思うことにする!」

ってメチャメチャ考えられたセリフだと思うけどね

板東英二って個人を、どういうふうに捉えているかによって、見えるものが変わる

金妻の役柄だけじゃない、中日のエースってわけでもない、犯歴でもない、顔じゃない、テレビでの活躍だけじゃない、今現在の収入ってわけでもない

どこをどう見て評価するかは、自分で決めるってことじゃん

「今年の大河、吉高由里子かわいいぃ~」

てSNSに書くのはルッキズムじゃないんかい?そのへん考えたことある?

ドラマ『不適切にもほどがある』が昭和にもどりたいオジサンのドラマに見えてるひとには、そういう諸々が見えてない

『監獄のお姫様』のときから思ってたんだけど、クドカンのドラマって難しいのかもしれない


ことほど左様に、当アカウントはドラマ中盤から出てきた『不適切にもほどがある』への的外れな批判に危なっかしいものを感じてた

そしたら最終回の最後の最後に、このドラマは2054年に制作された2024年は不適切だったっていうドラマです!って仕掛けをブチ込んできやがった

爆笑させていただきました

「勉強してほしい!クドカンには絶望した!」みたいなことで騒いでるけど、今の勉強とやらも2054年には古い価値観なんだし、寛容にすり合わせていくしかないよ、相手を尊重してるつもりが傷つけることだってある、人間は間違うし、ノーミスで他者と共生はできない、寛容は肝要ってテーマがSNSの反響込みで完成してる感じ

素晴らしい

面白い

クドカン意地悪ぅぅって思った

令和と昭和の両方で生活してきた両キャラクターが、自分の時代に帰ったあと

最初は自分の時代が正しいと信じていたし、互いの時代に「ひどい」と思っていたけれど、言うほど酷くない部分もあったし、自分の時代にも問題あった

どうやら自分にも他人にも寛容にやっていくしかないな

甘えていいって言ってんじゃねぇよ、互いに寛容に、互いに大目にみるしかねぇよ

って、別になんも間違ってなさそうだけど、文句いうひとは

「クドカンが!おじさんの立場で寛容にやっていこうって言った!」

って思ってるみたい

ドラマの流れとか、どのキャラがなにを体験して言ったセリフかとか、そーゆーのガン無視して「クドカンのドラマで、クドカンがこーゆーセリフ書いたのでダメ!」みたいな

一部分切り取って騒いでる感じ

これが2054年から見たら、2024年も不適切って仕掛けと相俟って、一部分切り取っても仕方ないよ、に繋がる

間違ってる方、目覚めてない方を、全否定して、我々の側につけ!我々の方が知的で正しいのだ!って強制するやり方じゃ伝わらないのでミュージカル調にした演出とか、いちいち考えられてるーって思った

未だ昭和的価値観で生きてる方とも、過激に正論押し付けていく方とも、共生しなくちゃいけない

対消滅なんかしないんだから、我々は理解し難いひととも生きていくしかない

『季節のない街』で、ソコにいることを忘れて、見えなくなってしまったひとも生きているってことを描いたクドカンの次のターンが『不適切にもほどがある』

進化してるぅーすげぇ!って思った

「もっと勉強してほしい」とか「クドカンにはガッカリした」って言ってるひとは、昭和から来た主人公をボロクソ否定して笑いモンにするだけのドラマが見たかったのかも知れんけど、宮藤官九郎はそんなタームからとっくに降りてる

7話ですでに「父親を笑いモノにしていいのは、娘のあたしだけ」っていうのを描いてることから、そんなモンに加担する気はない!って宣言してる

昭和的価値観を否定したって消えるわけじゃない、そこにいるんだから、ともに生きるためにどう生きるべきなのか、そこを見てる、そこを描いてる

意識低い系ドラマって銘打ってたけど、意識してないひとはコメディドラマとして享受できて、意識高いと自認してるひとたちの鼻っ柱をはじく

めちゃめちゃ面白かった『不適切にもほどがある』

まさに不適切にもほどがある

自分のことアップデートしたと得意気なひとは、アップデートしてないひとを叩いていいと信じている

そういうひとたちを否定したドラマ

「昭和と令和」の二項対立と信じてるようだけど、三項なんだぜ

下位互換のないアップデートだと、アップデート済同士でしか連帯できない

ドラマ『不適切にもほどがある』はそういうことを書いてたんだと思ってる


5月25日追記

自分のお気に入りのマイノリティ描写と、明らかに踏みつけているけどだれも気にしないマイノリティ描写があって、後者は大抵のひとにとって無視できてしまう

無視できるから話題にもならない

いまの朝ドラ『虎に翼』みたいに、女性差別には敏感に反応できるけどアカ狩りには無頓着なことにだれもなにも言わない

寅子は弁護士でありながら、治安維持法で逮捕された数十万人を無視したまま悲劇のヒロインぶっている

同じ弁護士でありながら逮捕され網走に拘留されているひともいるのに知らんぷりできている

戦争に「はて?」って言わない

無視され続けている反戦運動家のことで、だれも声をあげたりしていないのが現状

"""アップデート"""は万能じゃないし、個人のアップデートなんか限界がある

それを描き、面白いままそこから脱却した『不適切にもほどがある』はマジですごかった

今いちばん最先端の国内ドラマだし、国内では当分だれも越せない

越すとしたらクドカン


6月15日追記

寛容にやっていきましょうぅ~~♪

ってドラマ最終回で描写したのは、自分たちは強者であり弱者でもあり加害者でもあり被害者でもあるっていう、それぞれの立場で生きていくしかないってこと

それを理解できてれば、互いに一歩ずつひいていくしかないね、寛容にやっていくしかないよってなるんだけど

SNSで感想書くようなひとは「自分たちは紛れもない弱者かつ被害者!」っていうポジションを崩そうとしないから

「これ以上、我慢しろっていうのか!」

怒っちゃったんだろうね

中年男性である宮藤官九郎が執筆して中年男性である阿部サダヲが主役なせいで「中年男性たるマジョリティがわたくしたちマイノリティに寛容であれって歌ったな!」って怒ったんだろうね

ドラマの見方のレベルが低い!