私はとても涙脆い。昨日の魔女宅も、5分しか観ていないのにボロボロに泣き、今やっている容疑者xの献身でもボロボロになっている。
人間の愛に弱い。無償の愛とか、無責任な愛に弱い。だから、キキがデッキブラシで空を飛び、トンボを救うために街中の人から声援を受けるシーンを観て泣く。石神の見返りを求めない愛で泣く。最後に登山をするシーンで既に泣いてた。きちんと観たことはなくて、原作を読んだだけだったけど、結末を知っているからずっと泣いていた。
昔は本が大好きで、ずっと読んでいた。文字通り寝食を忘れて本ばかり読んだ。懐かしい。本が思うように読めなくなって久しい。あの頃みたいに本が読みたい。本が読みたいな。
自分が涙を流している時、自分の心は美しいのだと思い込みたくて泣いているのではないかと思ってしまうことがある。こんな美しい話で涙を流せるのだから、私には美しい心があるんだ、美しい魂を持っているから、泣けるんだ。そういうふうに思いたくて泣いているのではないか? こういう風に変に俯瞰して思考しまうところが、私のよくないところなんだろうなと思う。
この2日間で干涸びるほど泣いて、泣きながら自分の心や魂に思いを馳せて、私には幸せになる資格があるのだろうかと考えたりする。
人並みの幸せを得るには、すごく遠いところにいる。そんな気がする。このまま独りで生きて死ぬのすら、烏滸がましいという思いになることがある。
どうして私はこんなにも色々な病気と生きていかなければならないのだろうと思うと同時に、どうして自分なんかがこんなに恵まれたところでぬくぬくと生きているんだろうと思う。
全てに恵まれている。たぶん愛を知っている。これだけでこんなに幸せなのに、もっと幸せを望むなんて烏滸がましいと思う。でも、何をしてでも幸せになりたいとも思う。そういう人達と出会えたことで、自分の人生はもう完成していると思う。
何を見ても思い出す人がいる。それがすごく幸せで、いつか失うんじゃないかと思うとすごく怖くて、地に足のつかない日々を過ごしている。
私、何書いてるんだろう。でも、吐き出したかった。
重い病気をいくつも抱えているのに頑張ってるね、って言ってもらいたいだけなのかもしれない。こんな病気になったことを恨む暇もないくらいの人生を、有り難がりたいのかもしれない。
生きているのが、どうしようもなく辛い。
ただ、言える相手はどこにもいない。
私のことを大切に思ってくれている人を傷付けることになるから、家族にも、親友にも全ては話せない。
なんてひどい、そして陳腐な話だろう。
私が初めて創作といえる創作をしたのは、19歳の時だったと思う。それからずっと、創作に救われてきた。私の創作は私を映す鏡で、私の心象風景を切り取った簡素な窓枠なのに、たくさんの方に褒めていただけた。もうこれだけでいいはずなのに、満たされない自分が虚しくて苦しい。
創作で評価されるのは嬉しいはずなのに、元々空虚なものを誉めそやされているようで、平坦な気持ちになってしまう。
私、幸せになりたいよ。でも、なれるか分からないし、私は独りで幸せになれるようなできた人間じゃないから、誰かを巻き込んでしまうことになると思う。もしかして、世界で1番大切な人を巻き込んでしまうかもしれない。
それって、幸せと呼んでいいんだろうか。
大切な人のために、独りでも生きていけるようにならなきゃいけないんじゃないだろうか。
泣きながら考えている。この文章も、ある意味では創作かもしれない。私の人生、かなり面白くて、ただありふれた、言葉を失うくらいのちょっとした不幸の数々と、大きな幸せでできている。
本当に人を愛することって、何なんだろう。
容疑者xの献身を観ながら、ずっと考えていた。