ともだち増やそうと思った話

ちろ
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公開:2024/11/24

今年の目標は「ともだちを増やす」だった。わたしは社交的な人間じゃない。好きな人間も多くなかったし、気の置けない友人が数人、なんなら2人くらいいれば十分だと思っていた。しかしここ数年(あ、これこのままだと詰むな)という感覚がひたひたと迫っていた。

雪に埋まったすべり台

仕事での立場が、偉くないけどヒラでもない、いわゆる「中間管理職」的になってきた。ある日、突然気づいた。仕事の悩みを話せる人がマジでいない。

若手の子に無責任に「お気持ち」を話して、意図せず何かを忖度させてしまうのが怖かった。いくら気安く接してくれても、年齢や立場でこちらが上にいる以上、決して対等ではない。大人として、自分の影響力には自覚的でありたい。

逆に上司にも話せなかった。上長への報告は、課題→対策→成果まで含まれるべきだと思っていたから。私が話したかったのは「やるべきことはわかるしやるけど一旦現状つらい」みたいなことで、上長に相談すべき建設的な内容じゃないと思った。結局このことを話せたのは、退職を決めたあとだった。彼は目を合わせずに「もっと早く話してくれれば…」と言った。

かといって、背景を知らない人に悩みを一から説明する元気もなかった。というか説明するために現状を整理するほどに、「じゃあこうすればいいじゃん」と自分でも思えてしまい、「つらい」とかはどうでもいいことのように思えた。話しても良いと思えることがない。話しても良いと思える人がいない。行き場をなくした言葉がたまって、どんどん具合が悪くなっていく感覚があった。これはたぶん外に出すべきものだ。

しゃぼん玉

もう一つ、夫のことを話す人がいないことが重なった。夫とは共通の友人が多い。私は決して誇れるような人格者ではないが、夫と親しくしている人に夫の悪口を吹き込むほど愚かじゃない。彼の印象を悪くして、味方を増やすような真似はしたくなかった。ただ誰かに共感してもらえないと、とにかくきつかった。

夫は本当に面白く優しいやつで、私の友人とも次々に仲良くなっていく。世界一良い人間(当社比)なので当然だ。でも私の視点からだと、それは共感の機会が次々奪われていくようなものだった。もちろん夫も友人も悪くない。話せる人がいないのは私の問題だ。

「無口なお父さん」の正体ってこれか?と思った。役割の間に挟まれ、あるべき姿が先行し、自分の気持ちを開示することができない。やだよ~「無口なお父さん」になりたくないよ~。人生は長い。まだ半分いっていないぽい。このままでいいとは思えない。ともだちを増やそう。気持ちを話せるようになろう。今年の初めにそう決めた。

ひすい海岸で拾った石

私、やると決めたらやる人間なんですよ。行動目標を3つ立てた。毎月新しい人と会うこと、飲食以外の遊びをすること、小さな自己開示を練習すること。

毎月新しい人と会うのは、まず母数が足りないと思ったから。大人はじっとしていると、めったに新しい人に出会えない。小学生のように、クラス替えで勝手に知り合いが増えたりしない。ともだちになれる人の母数が、年々減っていると気づいていた。

結果として、11月現在までに新しく知り合えた人は30人。上出来じゃないですか?最初は自分で声をかけていたけれど「ともだち増やしたいんです!」と公言していたら、友人が友人を紹介してくれるようになった。知らない人しかいない会に誘ってもらえたりもした。まじBIG LOVE。心から感謝しています。

ワインピクニック

飲食以外の遊びをするのは、多様性をもたせるため。大人はあそぼう〜と誘うと、すぐ酒飲んで美味しいものを食べようとする。でもそれでは酒を飲める人、食べるのが好きな人としか仲良くなれないから。意識したものの、これは難しかった。なぜなら私も、酒と美味しいものが大好きな大人だからです。

ピクニックを初夏にも秋にもやった。春には花を見に富山まで行った。友達の家で日がなハロプロを見続ける会をやった。重量級ボードゲームの会は定例となっている。しかし、まだぜんぜん多様性がたりない。もっと名前のついていない、バカみたいな遊びをしないとな、と思う。

そして、小さな自己開示の練習。月1回、目標の進捗を話すだけの「目標会」という集まりをしている。2、3人で1時間くらい話す。参加者同士は、超仲良しというわけではなく、本当に月1回話すだけの間柄だ。それぞれの目標と、頑張っていること、できたこと、できなかったこと、それをどう思ったかなどを話す。背景すべてをじっくり話すほどの時間はかけない。

これを繰り返すうちに、気持ちを小さなポーションに分けて一部に共感してもらう、ということができるようになってきたように思う。私はこれまで、背景を知らない人に自分の気持ちを否定されることを恐れていた。けれど、気持ちすべてを理解してもらえないのは、ぜんぜん悲しいことじゃないと思った。むしろ背景を知らない人が「そうだね」とそのまま言ってくれることで、埋められるものがあるな、と今は思う。

ハツラツとした姿勢で無理なく歩く

この1年を振り返って、私の社交への苦手意識はなんだったんだろう、と思う。いや嘘。今も行きたくない社交とかめちゃくちゃある。けど少なくとも「ともだち少なくていい」わけじゃ全然なかったみたいだ。

今は多くの人に自分の一部を、ちょっとずつ持ってもらっているような感覚がある。自分では良い変化だと思うので「ともだちを増やす」を続けたいと思う。引き続きどうぞよろしくお願いします。