背景①:ピアノ再開の動機
4歳〜17歳まで習っていたが、それっきり触っていなかったピアノを再び習い始めた
最後に音楽を演奏しなくなったのが大学1年の冬。実力派だらけのPOMPで、中途半端なベースとボーカルの実力ではサバイブできなかった
ここ最近になって再び音楽を手元に取り戻したいと思った。自分で音楽をつくる、という感覚がどんなものなのか、味わってみたい。
高校の時、曲がりなりにも2-3曲作ったことがあるが、今はその感覚が全くない
作曲がしたいが、今のままだとできない
とりあえず音楽と繋がるために何ができそうかを考えると、たぶんピアノをもう一度練習して、感覚を取り戻すことだと思った
背景②:ピアノと声楽
何個か体験に行った中でダントツに良くて、この先生にすると即決
体験レッスンの密度がすごく、75分で自分の知らないことだらけだった。いかに次元の浅い領域で自分が音楽をやっていたのか痛感した(楽しくやりたいならその方向のままでも良い、と言われた)
声楽とピアノを一緒に習えるらしいので、75分のレッスンで二つともやる
平日しかやっていないので、月2回。平日夜に仕事の合間を見つけてレッスン。
出来事①:ピアノ
課題曲:ベートーベンのソナタ8番「悲愴」第一楽章
ピアノが得意な友人が中二ぐらいの時に弾いていた
周回遅れすぎて大人になって一体何をやっているのかと自問しそうになるが、やると決めたことだから仕方がない
1時間で進んだのは8小節だけ。そのぐらい自分の弾き方が根本からぶっ壊れてた。焦って譜読みをしたが逆効果だった。
指摘されたこと色々
指の置き方:第一関節が水平方向に曲がってしまっていた
おはじきを指で引き寄せる運指の練習をずっとやっていたらしい
声楽もピアノも「筋トレ」。運動神経が必要だと痛感する
手首の脱力
運指:楽譜の指示を守っていない
結果として滑らかに旋律をつなぐことができず、ペダルで誤魔化すことに
アクセント
フォルテピアノ
電子ピアノで練習することの限界。久々にグランドピアノを触って全然違うと思った
ペダルの感覚:e.g. ハーフペダル
アリス・サラ・オットはコンサートでも裸足らしい
ペダルを戻す時の音
ガチャガチャ言わせない
タッチとか、音のフィードバックの仕方がそもそも原理的に異なるからやっぱり電子で練習は難しい
時代背景
世界史弱者すぎて何も分からなかった
18世紀末、フランス革命
悲愴は1798年作曲。28歳。この頃にはすでに難聴の症状があったらしい
出来事②:声楽
例のごとく呼吸法から。
息を吸うと横隔膜が下がって胸の辺りの空間が膨らむ。息を吐くと横隔膜が上がっていくわけだが、それを下に維持するというか、胸の辺りの空間が広がったまま発声する感覚をもつらしい(感覚的な話が多かったので、以降の翻訳は多分に意訳を含む)。おへそのやや下あたりの領域(丹田。大学1年の頃のボーカルコーチもそう言っていた)に力がいくらしい。ゴルフとか乗馬でも、自分の身体を上手にコントロールできていると感じる瞬間は、おへその下あたりに力を感じるとのこと。
いくつか感覚を掴むための方法はあって、一番わかりやすかったのは、トレーニング用のチューブで行うもの。息を吸っている状態では左。息を吐くと同時に少しずつ右の状態に近づけていって腕を上げていくと、胸の辺りを膨らませたまま息を吐く感覚を体感できる。
超感覚的で分からなかったのだが、究極的な発声は、下に向かうエネルギーと上に向かうエネルギーが摩擦しているような状態で行われるらしい(あくまで感覚的な話)。下へ向かうエネルギーと言っているのは、できるだけ胸の辺りを膨らませた状態を維持することで、つまり横隔膜が下にある状態を維持して発声の中心を下側に維持すること。上に向かうエネルギーといってるのは、息のことだと思う。声帯、喉の先っちょから声を出すというより、下の方から来た息が声帯を通った結果、たまたま声が出るという形を目指す。
まとめ
これぞ身体!という感じ。身体修行はあまり心地の良いものではなく、やはりストイックにならざるを得ないというか、辛いこと大半の反復練習の積み上げの果てに醸成される芸、といった感触(ほとんど筋トレ)
自分にとって「ピアノの先生」というのは「こどもの習い事」の象徴の一つであり、権力というか法の象徴であった。「ピアノの先生」は怖く、「ピアノの練習」は反復的でつまらなく、どちらかというと強制されるもの
中学生以降は自分からやっていた、とも言えるような気がするが、「ピアノが弾ける」という状態は好きだが、「練習しなくてはならない」という状況は好きではない、そんな感覚に近い。
それを社会人になって自ら進んでやっている理由については、いつか(自己)分析がしたい
弱き子供の立場でピアノを習っていた時と、師匠・生徒の関係はあれど、ある意味で対等な大人同士の関係においてピアノを習っている現在。学びを十分に吸収できなかった子供の時の未熟さ、未練のようなものを、上書きしているような気分になる。強制させられた通路を、もう一度自主性によって歩き直している感覚
子供は色んな意味で尊い。子供というだけで無条件に大人から舐められる。大人に依存せずには生きていけないので、大人の顔色を伺う必要がある。大人とはなんて自由な生き物なのだろう、とよく思うが、これは子育てをするとまた感想が変わりそうだとも思う。経済的に独立していて、尚且つ扶養対象もいない今の時間が、人生の中で一番お気楽なのかもしれない