『等身大の自分、という言い回しが嫌いだ。飾った自分、背伸びをした自分でさえ等身大でしかありえないのに』
どうでしょう。この尖りまくって壁に穴でも開ける勢いの滑り出しは。いや滑り出せてはいないかもしれない。摩擦係数が高すぎる。
二十代のわたくしが書く文章はこんなふうでした。まるで夜の校舎窓ガラス壊してまわる欲求でも抱えているかのような趣きがございます。
いえ、あの歌自体は心震わす名曲ですけども。
それにつけてもばかだったなぁと。二十代の自分は。実体のないものにびくびくして、空っぽで。何が欲しいのかもわからないのに、何もかもを欲しがっていて。
自分なりの理はあったのでしょうが、これでは誰かと対話するのに不自由きわまりない。
まぁそういった幼稚なところは今もそんなに変わっていないのですが、自覚があるだけマシというものです。理性で補えますからね。
昔会社員であった頃、お仕事上の「駆け引き」を繰り返すにつれ、そう思うようになりました。
差し出す側と受け取る側で目的は必ず異なるものです。
仮に自分が「差し出す側」だとして。何らかの事情で相手の意に沿うことができない場合はこちらの言い分を呑んでもらわねばなりませんよね。
そんな時、初手から喧嘩腰では本来まとまる話もまとまらないのでございます。
あちら様に「おや?この人物はわれらサイドの事情を理解していないわけではなさそうだ」と思ってもらうことがまず肝要かと。
(その先は個人の腕次第ですけどね)
交渉とは、掘り下げてみればそうしたものだと思っています。互いに「自分こそが正しいのだ!」と主張し合うことではなく。
視野を広げてみれば、このような場所で書いたものを読んでもらうのも同じこと。私が筆のままに刹那的な感情を書き殴ったとしても、伝わるものはほんの僅かでしょう。単に一部の人と束の間「同一の怒り」を共有して、それで終わりかもしれない。
そういうのは虚しいだけであるような。
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菜虫化蝶(なむしちょうとなる)
啓蟄も末候ですが、そのわりに寒い日です。
ここ数日も眺めておりましたが、イーロンくんのところは次から次へと火種がばら撒かれ、好戦的な人々がそこへ群がるようすはいつもの通りですね。あれで何かの世直しが成ることはきっと無い... と個人的には思うのですが。
剣呑なことなど特に見当たらず、たとえば昨日自分が作ったごはんと似たようなものを誰かが今日食べている。というような、日常のささやかなJOYを感じさせてくれる「青空」が楽しゅうございます。
つまらなくも愛おしい日々のことをお喋りするのなら、こういう場所がいいなと思った次第です。