Twitterに棲み始めたのは2008年のことでした。リーマンショックの年です。
開設日は私の場合9月11日
あのメモリアルデーに『登録した日をおぼえていますか!』というお知らせが(今はイーロン氏に制圧された)かつてのTwitter社から送られて来て「なんて日に思い立ったの... 当時の私はニュースなどろくに見てもいなかったのね」と。妙な感慨に耽るなど毎年しています。まぁ他に倦むことがあって自分のことで精一杯だったのかもしれない。
インターネットでぶつぶつお喋り歴は実はもう少し長いのです。久々に連絡をとった古いネット友だちが「信じられないことにもうすぐ四十になるんだよね...」と話すのに、震えがくるような心地になったのは昨年末のことでした。あの当時彼女はうら若き大学生であったのに。
こうして今も連絡のつく『古いネット友だち』は多くはないものの数人居て、中には互いの顔も素性もあらかた知っているが実際会ったことはない。というような相手も存在します。
若き日のとある友人は、趣味にフットワーク軽く動くためきらびやかなお店に勤めるおねえさん。読書家で、太宰が好きで、時にはその感性がこぼれ落ちるような心震える文章を書いていたりと、深い教養を感じさせる魅力的な人物でした。お仕事の会話に必要な時事ニュースも欠かさずチェックしているようでしたし。9月11日にのんきにTwitterいじってた私とは大違いだよ。
短くはない時間が経ちました。そんな彼女から「洒落にならない病気をして死にかけたので煙草は止めました」とか「結婚しました」とか「家族が増えました」とか。人生の節目にあたる出来事を聞かされる度に、ずっと一緒に育って来たきょうだいを思うような気持ちになります。
「いつか実際お目にかかるのを私はまだ諦めていません」などと時々言われるのですが、もうどっちでもいいんじゃないのかなと。会っても会わなくても。
(もちろん機会があれば素敵なことだけど)
もっと歳をとって人生を回顧するようなことになれば彼女のこともきっと思い出すだろうし。
その瞬間の自分に少し思いを馳せて、光が差すような気持ちになった春まだ浅い日。
凍て返る町のずっと向こうに、彼女もほかの古い友だちも元気に暮らしているかなと。
今も繋がりのある子もそうでない子も、みんなささやかに幸せだったらいいねぇというような、祈りに似た何かを心にぎゅっと抱きしめる朝でした。