「私の野球人生、皆さんのおかげで本当に熱く幸せな男、松田宣浩にしていただきました」
熱男さんが引退セレモニーで最後に言ったこの一言。あの日から1年以上経った今も、ふと思い出しては「わたしのほうが、熱男さんのおかげで幸せなファンでいさせてもらったんだよ…」と泣いてしまう。あの言葉を、生で聞けてよかった。
これまで20年間プロ野球を観てきたが、最推し選手の引退を経験したのは去年が初めてだった。わたしの『最推し』選手は、和田毅と松田宣浩の2人。2人いるからこそ支えられたことも多かったけれど、2年連続で『最推し』が引退したのは本当につらい。20年も最推しが引退しなかったのは幸運だとわかっちゃいるが、つらいもんはつらい。(ちなみにふらみんちゃんは17歳です)
松田宣浩自叙伝『燃えつきるまで』を読んで、あれは熱男さんの18年間がぎゅっと詰まった本音だったんだと実感した。熱男さんにとってのファンの存在、そして双子の兄の存在…。普段は読んだ感想を思うままに書くだけだけど、今年は熱男さんを語る機会がなかったので、できるだけしっかり感想を書きます。わたしは推しへの愛が2トンある女だから。
熱男・松田宣浩
『熱男』と言えば松田宣浩。松田宣浩といえば『熱男』。個人的に「松田さん」と呼ぶのはなんだかむずがゆいので、これ以降も「熱男さん」と呼びます。
『熱男』は、もともと2015年の福岡ソフトバンクホークスのチームスローガンだった。当時の工藤監督がこのスローガンを選び、選手会長だった熱男さんは「なんか変な言葉やな」と思いつつも「せっかくだからホームランを打ったときに叫んでみよう」と軽い気持ちで叫び始めた。するとなんだかみるみるうちに定着していき、いつのまにか変なスローガンは熱男さん自身を表す言葉になっていった。ホークスの試合にとどまらず、オールスターや日本代表でもとにかくどこでも「熱男〜!🔥」と叫びまくる熱男さん。そうすることですっかりプロ野球界全体に認知された。なんなら、今は他競技界隈にまで広がっているらしい。
目立つことをする選手は他にもいるが、熱男さんのすごいところは、31歳のシーズンに『熱男』パフォーマンスを始めてから、5年連続全試合出場を果たしたところだ。その間、3回も日本代表に選ばれている。結果を残すプロ野球選手の、最も脂が乗った旬の時期はだいたい27〜31歳あたりだとわたしは思っている。そう考えると、熱男さんはかなり大器晩成型の選手だった。
この『燃えつきるまで』は、そんな熱男さんが双子の兄と野球を始め、『熱男』に至るまでと、2023年に巨人へ移籍し引退に至るまでのことが書かれている。18年もファンをやっていれば知っていることもあったけれど、新しい気づきもたくさんあった。
最初からクライマックス
この自叙伝、まず構成がいい。プロローグでは、いきなりユニフォームを脱ぐ決断と引退試合の場面から始まる。9ページ目では、長年の目標だった「40歳で現役」を達成した日に2軍の試合ながらホームランを打ったエピソードが語られ、胸がいっぱいになって涙が出た。しかし次のページをめくると予想外の一文が挟まれ、クスッと笑わせられたりする。なんて緩急のつけ方がうまい構成なんだ…。
引退試合を辞退しようとしていた熱男さんに、当時の原監督が
『ジャイアンツの1年だけではなく、ホークスの17年も併せて、プロ野球の世界で18年間頑張ってきた選手の引退試合だから。ファンのみんなはずっとマッチを見てきたんだよ。だから、思いっきりプレーして、最後の1日を楽しみなさい』
と説得したというエピソードには大号泣してしまった。原さんがここで熱男さんを説き伏せてくれなければ、あの試合もセレモニーもなかったなんて。準備してくださったジャイアンツ球団の方々には、本当に感謝しかない。あの引退試合とセレモニーは、17年間応援してきた選手が球界全体から大切にされていた証拠だった。なんて幸せな空間にいられたんだろう。
双子の弟であること
プロローグでは引退決断から引退試合までが書かれ、あとは時系列順に話が進む。前半では、小学2年生で野球を始めた熱男少年が、双子の兄との関係を通じてどのように成長していったかが中心だ。ファンにはお馴染みだが、熱男さんは二卵性双生児の「弟」であり、兄のほうがとても目立つ選手だったという。熱男少年も『松田ツインズ』として地元の滋賀では有名だったが、兄の活躍によるものが大きかった。この部分は、「熱男さんファン」としてだけでなく「兄弟間に生まれるさまざまな感情」が好きなわたしにとっても興味深い内容だった。
双子だから、常にキャッチボールの相手がすぐ隣にいたこと。明るく社交的で、器用になんでもこなす「自分より少し優れた兄」をどう見ていたのか。時にコンプレックスの対象となり、悩みすぎて円形脱毛症になったこともあったそうだが、それでも熱男少年が幼少期から今に至るまで兄を大好きでいることが伝わってくる。
「絶対兄に負けたくない」と思い、たくさん練習を重ねていた熱男少年。負けたくない、追いつきたい、なんとか兄に「すごいな」と認めてほしい。でも「勝ちたい」「打ち負かしたい」わけではない――という複雑な少年心…。わたしはなんとなく、熱男少年が当時兄に感じていた憧れや尊敬の入り混じった感情を、同じく兄からも向けられたかったのかなと感じた。(あくまでわたしの解釈です)
常に隣にいた、「自分より少し優れた、太陽のような兄の存在」が、熱男さんの人格形成に多大なる影響を与えているのが全体を通してもわかる。兄が大好きだからこそ、目立ちたがり屋の自覚があっても兄より前に出ることは控えていた熱男少年。それを支えていたのは、お父さんの『双子は平等に、いつも一緒に』という教育方針だった。熱男さんが今も「兄弟仲がよく、兄のことが大好き」なままでいられたのは、ご両親がまず忠実に『2人平等に』接していたからなんだと思う。もちろん、お兄さんもとてもいい人なんだろう。
過去の出来事は本人の記憶だけに頼らず、家族みんなで何度も話し合いながら紐解いたそうだ。松田家にとってタブーとなった出来事があったが、この本を出す過程でお父さんやお兄さんの心情が明かされ、家族のわだかまりが解けたというのがとてもよかった。
少年が大人になるとき
お父さんの『高校までは双子一緒に』という教育方針のもと、兄弟そろって岐阜の高校に進学した熱男少年。兄より先にレギュラーの座を掴んだこと。甲子園出場を果たしたが、自分のエラーで敗退した苦しい経験。次第に『兄に負けたくない』という気持ちが薄れていく。それにしても、高校生が「自分のエラーで試合を終わらせてしまう」という経験は、想像するだけでも胸が痛む。熱男さんは当時なんとか切り替えたようだが、今でも「つらい」と語っているのでこちらも苦しくなってしまった。
目立ちたがり屋気質が目を覚ましキャプテンに立候補するほど、熱男少年はだんだん少年から大人へと成長していった。本人はただ当時の出来事や心情を書いたつもりだろうけれど、高校時代の話には「少年が大人になる瞬間」の心情の変化が鮮明に書かれていた。その瞬間に心惹かれる身として、この描写には大いに感謝したい。
そして野球人生で初めて兄と離れ、亜細亜大学へ進学した熱男さん。そこは大学野球界で最も練習が厳しい、地獄の環境――。しかし熱男さんには、驚くべき特異な才能があった。それは、「ハードな練習に対する鈍感力」だ。以前から熱男さんは大学時代のことを「つらい思い出」として語ったことがなく、「厳しいと思ったことがない」と公言していた。そのため「松田の感覚はおかしい」と言われることもあったが、今回その謎が解けた。どうやら「苦しい練習に対する耐性」が強いらしい。実際、いくらでも練習できる亜細亜大学の環境は「天国」だと書いている。
そう、熱男さんの才能は、兄のような明るさや社交性、なんでも器用にこなす天才的なセンスではなかった。ハードな練習を黙々とこなし、「誰よりも練習できること」こそが、熱男さんの真の才能だったのだ。
それについては、今回の本を書くにあたっての家族会議内でお兄さんから言われたという。兄は昔から熱男さんに「練習量だけは敵わない」と感じていたそうだ。ずっと前を走り続けていた兄から、そんな言葉を贈られたというのは、熱男さんの心にどう響いたんだろう。シンプルに『素直にうれしかった』とだけ書かれていたけれど、わたしは熱男さんの中に眠った熱男少年のことを考えた。
「才能に差があるなら、努力すればいい」
大人になった熱男さんは希望入団枠で福岡ソフトバンクホークスへ入団する。当時、わたしは地元出身(&誕生日が同じ)の江川智晃を応援していたので熱男さんには懐疑的だった。だから入団時のことは「そんなこともあったね」より「そんな感じだったっけ」と思いながら読んだ。確かに、ルーキー時代の熱男さんに「明るい」「元気」といったイメージはほとんどない。熱男さん自身もルーキー時代の自分はまさに『寒男』だと書いている。
それでも熱男(寒男)さんは小久保さん(現監督)以来、12年ぶりの開幕スタメンルーキーだった。熱男さん以降、いまだにホークスで開幕スタメンのルーキーは出ていないほど、球団は多大な期待をかけていた。しかしさっぱり打てず、エラーをしまくる寒男さん。6月には2軍へ降格し、1軍へ戻ってくることなくその年を終えた。このあたりはいろんなインタビューで聞いているので、よく知っている。降格後、寒男さんは当時の2軍監督であった秋山さんと二人三脚で、打撃フォームをゼロから見直した。正直、ここ10年くらいのホークスファンなら誰でも知っていることだろう。有名な話だ。
今思えば、寒男さんが背負っていたプレッシャーは計り知れない。球団は前年度までサードを守っていた外国人選手の契約を打ち切り、寒男さんを開幕からサードで起用していた。当時のドラフト『希望入団枠』は、今の完全くじ引き制ではなく「アマチュア選手自身に球団を選んでもらう」仕組みだった。表立って言えないお金も多く動いていただろう。それだけ「お金をかけてお膳立て」された舞台で、寒男さんは期待を大いに裏切ってしまった。とんでもないことだ。SNSがない時代でよかった。何を言われていたかわかりゃしない。(今の時代でも誹謗中傷はするな)本人が言うとおり、心が折れてしまったり塞ぎ込んでしまってもおかしくなかった。
しかし寒男さんは、そこからすぐに切り替えがむしゃらに練習に打ち込んだ。それはなぜか?
僕自身が子供のころから常に自分より才能のある選手の隣でプレーしてきたからだと思う。僕は常に自分の一歩前を歩く双子の兄を見ながら野球をやってきた。
「才能に差があるなら、努力して追いつけばいいだけ」
深く悩まず単純にそう思えたのも、兄とともに野球の道を歩んできたからだと思う。
ここを読んだ瞬間、「伏線回収…!!」と鳥肌が立ち、また号泣した。兄!!!兄の存在!!!デカすぎる!!!そしてお父さんの教育方針!!!ありがとう!!!!
この時期は、熱男さんの野球人生で最も大きな挫折だったのではないだろうか。それを乗り越えられたのは、熱男さんの謙虚で素直な(そして少し鈍感な)心があったおかげで…。それを育んだのは、双子の兄の存在とお父さんの教育方針だったんだ…。
ファンと共に輝いた『熱男』
熱男さんの野球人生は、わたしのホークスファンとしての歴史そのもの。なかなかクライマックスシリーズで勝てなかった日々、元気だけが取り柄と言われた時代、2年間で3度の骨折…。そんな若鷹だった熱男さんが2011年に初めて全試合出場を果たし、日本一の座を掴む。そして2014年、自身のサヨナラ打で優勝を決めたあと、『熱男』という言葉が生まれる2015年へ――。このあたりは「ああ、本当に楽しかった…あのころは…」という気持ちで読んだ。あのころのわたしは熱男さんはもちろん、ホークスも福岡の街も大好きだった。
正式に『熱男』となった熱男さんの活躍は前述のとおり。2014年から2020年のホークスは本当に強かった。誇らしかった。選手がそれぞれ自分の役割をこなし、生き生きとプレーしていた。その中心にはいつも熱男さんがいた。熱男さんが名実ともに球団の顔となり活躍していた期間、本当にわたしは幸せなファンだった。熱男さんのおかげで…。
「松田選手は24時間、熱男なのですか?」
僕自身の中では、「熱男」のボリュームのつまみがあり、状況に応じて調節する感覚と言えるかもしれない。
↑初めて見た日本語
しかし、そんな熱男さんをコロナ禍が襲う。それでも熱男さんは変わらなかった。自粛期間中にはSNSで「熱男リレー」を行い、ベンチを温める機会が増えても決してふてくされず、熱男らしい振る舞いを貫いた。それは、かねてから「ベンチの後ろでムスッとしているベテランにはなりたくない、むしろベテランだからこそ声を出す選手でいたい」と言っていたとおりの姿だった。
いつも若々しく、元気でエネルギッシュなので気づかなかったが、熱男さんはそのときもう40手前になっていた。だんだん成績が振るわなくなっていく。それでも無観客試合の期間中はなかなか出なかったホームランが、有観客となった途端に出たのは記憶に新しい。柳田悠岐も、「松田さんは真のプロ野球選手」と称賛していた。ファンを盛り上げ、元気を与える、まさに太陽のような熱男さん。本人もその役割を自覚し、誇りを持ってプレーしていた。
だけど本当は、その逆だった。熱男さん自身がファンの声援に元気をもらい、それをエネルギーにしてプレーしていたのだ。
僕がファンの方々を盛り上げていたのではない。ファンの皆さんの声援や喜ぶ姿に、僕が励まされ、勇気づけられ、熱くさせられていたのだ。コロナ禍でファンの方々の声を聞けなくなったとき、自分の成績が落ち始めたのは必然だったのかもしれない。
もしコロナがなかったら、球場から声援が消えなかったら、熱男さんは「生涯ホークス」として今もまだプレーしていたのだろうか。それはもう誰にもわからない。ただ、このあたりでまた号泣してしまった。今年1年、ファンとはなんて無力で、推しから遠い存在なんだろう…と虚無感に苛まれることが多かったからだ。わたしのように、推しに認知されたくないタイプのファンはいないも同然で、推しのためにできることなんて何一つないんじゃないか――そんな苦しさがあった。あのとき、球場で送った拍手や声援が少しでも熱男さんの支えになっていたのなら、ファンは「無力」ではなく、大きな力になれたのだと今は思える。熱男さんの言葉が、この気持ちを教えてくれた。本当に、ファンでいてよかった。
新天地での「1年の冒険」
そして2023年、熱男さんはホークスを離れ、ジャイアンツで新たな挑戦をすることになった。ジャイアンツで過ごした日々については、新鮮な気持ちで読むことができた。単身、ホテル住まいで自分で洗濯物を洗うなど、なかなか大変そうな毎日だったが、熱男さんはその時間を「楽しかった」と振り返っている。引退が決まり、会見後の2軍の試合で巨人の若手選手たちがどうしてあんなに泣いてくれたのか、その理由もよくわかった。
正直、ホークスを出ていく決断は寂しかった。和田さんの引退にまつわる経緯から「熱男さんだって、あと1年だけだったんだから40歳現役という夢を叶えてくれればよかったじゃん!!」とホークス球団への怒りがぶり返したりもしていた。でもジャイアンツでの日々のことを読んだら、その感情は自然と成仏した。むしろ熱男さんの素晴らしさをホークスだけで独占せず、他球団・セリーグにも波及できたのはよかったとさえ思う。新しい出会いと気づきに満ちたジャイアンツでの1年を『冒険』と呼べる40歳。挑戦を恐れず、自分らしくプロ野球人生を全うしたその姿は、まさに熱男さんらしかった。
ホークス退団時から「熱男の後継者は?」と聞かれるたび、熱男さんは「決めていない。このスタイルをいいと思った人が引き継いでくれればいい」と答えていた。そんな中、巨人の浅野選手だけは引退直後に「後継者になれるかもしれない」と語っていた。だから今シーズンの活躍はひそかに嬉しかったし、この本を読んで来季はさらに注目したいと思った。巨人での1年が、決して無駄ではない有意義で楽しい時間だったことが書かれておりファンとして本当に嬉しかった。
推しと推しの共通点「謙虚であること」
読み終わって真っ先に思ったのは「兄の存在…デカすぎる…」ということだった。いつもすぐそばに、自分より一歩前を行く優れた兄がいたからこそ、熱男さんは謙虚で素直に、純粋に(時に鈍感に)努力をし続けられたんだろう。そしてその点が、和田さんとの共通点としてつながった。
以前読んだ和田さんの著書『だから僕は練習する』に、和田さんも同世代に多くの才能ある選手がいる中で「追いつくには練習するしかない」と考え、努力を続けたことが書いてあった。そして結果的に、NPB最後の松坂世代となった。その姿勢は、「才能に差があるなら努力で追いつけばいい」と兄を追い続けた熱男さんと重なる。
和田さんは顔から好きになり、熱男さんはプレーから好きになった。わたしの推したちはキャラクターも境遇も違う。それでも、「自分の弱さを認め、それを努力で補おうとする謙虚さ」という一点で重なり合っている。それが、どちらも『最推し』になった理由だったのかもしれない。熱男さんの兄の存在は以前から知っていたけれど、熱男さんの「謙虚さ」や「努力できるがむしゃらさ」にここまで影響があったとは思わなかった。
自叙伝、かなりいいなと思った。なぜなら「ためになること」や「アドバイス」的な要素の優先度が低いから。プロ野球選手やOB(解説者)の本はビジネスにも役立ちそうな内容が意識されがちだけど、自叙伝は「推しがそのときどう生きて、どう考えたか」をたっぷり書いてくれている!嬉しい!ありがとう!涙なしでは読めない、読み応えのある一冊だった!!そしてあのときの言葉が、より深く刺さった。ファンは無力じゃないことを伝えてくれて、本当にありがとう。
和田毅と松田宣浩。どちらも、才能だけではなく、努力や謙虚さ、そして自分の弱さを受け入れる強さでプロ野球界に生き続けた選手だった。改めて、この2人を人生の半分以上好きというだけで、わたしの人生は絶対に間違ってないと言い切れる。わたしを幸運で幸福なファンでいさせてくれて、ありがとう。
余談。『燃えつきるまで』も、和田さんの『だから僕は練習する』も、スポーツライターの田中周治さんが構成や編集協力に関わっていた。どちらも非常に読みやすく、推し2人の著書に携わってくださったことに感謝します。
書き終わってよかった。本当に終わらないかと思った。