私のインターネットデビューは大学生から。同年代の人たちと比べると多分めちゃくちゃ遅い。その上、ガラケーもiPhoneもフィルタリングサービスかけられ、ネット環境も家になくて…とにかく狭かった。だから掲示板とかニコニコ動画とか、時々周りが盛り上がる“懐かしいあの頃のネット”を知らない。かといってYouTubeが子守として使われるほど若くもない。そんな私が初めてインターネットの世界に違和感を抱いたのはBlack lives matterだった。これはハッキリ記憶している。
「どうして当たり前のことをハッシュタグと画像で表明しないといけないのか」
こんな書き方をしてしまうと「disってんのか?」と思われてしまいそうだけど、言いたいことはそこじゃない。
命っていうのはどんな人でも平等に与えられ、重んじられる。人とか国とか関係なく、これはみんな知ってるよな?って。なのにどうして「命は大切だ」と表明や運動をしないといけない?蔑ろにされたり忘れ去られたりするんだよね。最悪を繰り返すんだよね。それをまざまざと見せつけられている。絶望じゃなければどんな現実なのか。辛抱たまらない。当人同士の裁判やメディアやデモや集会に飽き足らず、インターネットという不特定多数が行き来する無形の世界でも同じことを叫びつづける。
もちろんね、デモや集会に参加できない人でも表明や運動ができるインターネットの世界はめっちゃ最高だと思う。体が悪くてベッドにいても地球の裏側に住んでいても、“いいね”やシェアや投稿で意思表示できる。これはまじで最高。だけどさ、いつまで続くんだろう。Black lives matterから約10年が経つんだって。ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ…その前だってたくさんの殺戮や戦争はあったにしても、今もなおその手段があるのはなんでかな。日本国内ではまだ明らかな殺戮や戦争は起こっていないにしても、人の尊厳は踏み躙られている。人がいる限り永遠に続く?自分と大切な人だけを守ることに注力したとしても、他者を侵害することもあるのだろうか。そもそもどうして奪い、奪われるのかな。
みんなはさ、バタフライ・エフェクトって信じてますか?何もしないよりはいいよね。なんだかんだ私もいつどんなときでもデモや集会に参加できるわけじゃない。インターネットはほんとうに便利だよね。ただ、私はこわいんだよね。このペースでいいのかな。この距離感とアクセスの仕方でいいのかな。私にできることや影響力はめちゃくちゃ微々たるものだけど、インターネットで表明することや拡散すること、それ以外にもっと、そのものを変えられるようなやり方ってないのかな。あまりに目まぐるしくて大きくて、実はもう私も飲み込まれてるんじゃないかって思うことがある。一端を担っちゃってるんじゃないかとこわいんだよね。どこでどう繋がっているかなんて上手く分からないようにされている世の中だから、私が叫んでいる影で苦しんでいる人はもっと苦しんでいるんじゃないか。せめて自分と大切な人のことを守れるくらいには強さを身につけていたい。いつでも大きな声で叫べる私でいたいな。奪うのではなく。
こうして書いていると少しずつだけど、どうしてインターネットで表明や運動をするのか分かってきた。ひとりだと声も枯れるし、守れる範囲も狭いね。不特定多数の人が行き交う無形の世界において、投稿することは大きな声で叫びつづけることそのもので、シェアすることは範囲が広がることだし、拡散すれば合唱になるわけだ。当たり前のことを大きな声で叫びつづけることは何も悲しいことばかりじゃないのかもしれないね。でもそうだな、やっぱりそれ以外の手段も持っていたい。有形の世界でできること。