たとえば私は容器入りのプレーンヨーグルト、
400gとか500g入りのやつ、3連でパックにされたやつじゃなくてプラスチックの蓋と中蓋があるほう、
あれを分けて食べるときに「あそうか今日は1人で食べないんだっけ」と思う。
少し不思議な話だと思う。説明させてほしい。
容器入りのプレーンヨーグルトは結構な量である。
一般的には皿とかに小分けにして、蜂蜜やらフルーツやら入れたい者は入れて、食べるのではないかと思う。そして残りは蓋をして明日以降に食べる。あるいは料理にちょっと使ったりする。
私が育った場所ではそうしていたし、私がいま暮らしている場所でもそうしている。
つまり、あのプレーンヨーグルトを一気に1人で食べることはほぼないのだ。
しかし、「あそうか今日は1人で食べないんだっけ」と思う、
つまり私は”通常、プレーンヨーグルトは1人で食べるもの”だと思っている。
これには私の中で、明確な起源があることが知られている。
はるか昔、学校という場所に通っていたことがある。
同年代を集めて大人が必要だと思う教育を受けさせる施設である。
その学校はいくつかの年代の子供たちが通っており、年上の生徒を年下の生徒が「先輩」と呼称していた。
(すみません、学生時代を振り返るのが決まり悪く、SFだと思えるように遠目から話をしています)
なんのきっかけだったかよくわからないが、ある時私は1人の先輩のブログを知った。
あまり先輩と話したことはないのだが、というかほぼないのだが、私は更新されるブログを愛読していた。かなり熱心な読者の1人だったと思う。
先輩はとにかく文章が明晰だった。
ブログに書かれるエピソードは、全く文脈を共有しない自分にもわかりやすかった。
何を食ったらそんな文章が書けるのか?
私は先輩の文章を本当に尊敬していた。
私もそのころ日記を書いてみることがあったが、文章を書くのが楽しすぎて日記を書くだけなのに2時間かかった。
1日1ページの日記なのに1日で5ページくらい埋まる(どういうこと?)。
自分の考えていることが独りよがりに噴出した、そのような文章を書いていた。
それに比べて先輩の文章はテトリスみたいに美しくわかりやすく、具体的だった。
ヨーグルトの話に戻りますね。
この憧れの先輩のとある日のブログに、
"カルシウムを摂取したい、それには乳製品を摂りたいが、牛乳はあまり合わない(という理由だったと思う)ためプレーンヨーグルトを1容器買ってきて公園のベンチで一気に食べた"
というエピソードがあった。
小説みたいな話じゃないですか?
カルシウムを摂取したいからヨーグルトを1容器買ってきて公園のベンチで食べた??
私がそのような話を書こうとしても、たぶんなんか牛乳が合わない話をくどくどと書いて意味わからない哲学書を引用しだしたりするのだと思う。
しかしその日も、先輩の文章はあまりに明瞭だった。具体的だった。
確かプレーンヨーグルトにそれまで砂糖がついていたはずだけどなくなったんですね、みたいなことも書いてあったと思う。
こんなにはっきり覚えているのは、このエピソードをさほど面白おかしくでもなく、淡々と、記録するように書いていることがあまりにも衝撃的だったからだ。
自分には決して書けない文章だった。
行動が簡潔に記載されており、私は情景を想像し、納得した。
その日から、プレーンヨーグルトは私にとって1人で一気に食べるものだ。
そのように、私はインターネットや成書などの色々な話を鵜呑みにしている。
先輩はたまたま顔を見たことがある人間だが、別にそうでもない人のブログや著書も愛読している。
愛読どころか一瞬、1回読んだだけで、ヨーグルトのように「定着」しているものもいくつかある。
私に何ができるのか?ということをたまに考える。
オリジナルのアイディアはこの世に存在しない、全ては過去のアイディアの組み合わせである、としたり顔の言説をよく聞く。
あるいは、誰かが先週言ったことをあたかも自分が思いついたかのように(というかその人の中では本当に思いついたことになっている)話す人は何人もいる。
私がそれらを聞くとき、いつも思い浮かべるのは小さい細長い旗だ。
小さい細長い旗がすべての人の後ろにたくさん連なっていて、旗はそれぞれ小さい生き物のように羽ばたき寄りあつまって、一瞬ひらめいたのち、その人になる。
絵本の「スイミー」を読んだことがあるだろうか?
岸本佐知子「気になる部分」を読んだことがある人は、「ゴンズイ玉」を思い浮かべてもいい。
私もまあ、おそらくそのような旗で構成されているのだろう。
そしてそれが伝播する、もっとうつくしい言葉で言えば受け継ぐ、ということであるかもしれない。
しかし、それぞれの小さい旗はどうなる?と思う。
小さいかわいらしい短冊形のカラフルな旗たち。どこから来たのかわからない旗たち、美しい旗たち、私以外誰も忘れてしまっているような旗たち。
できれば私がそれをどこで拾ったのか、もらったのかできるだけ覚えておきたいと思う。
これは引用とか、オリジナルとかそういう話ではない。
なるべく文章に参考文献を明示しましょうという話でも、もちろんない。
私が、私の家庭菜園の植物に、ひとつひとつネームタグをつけておきたいという話だ。
私にできることがあるならば、自分の考えがどの文章からきたのか、読んだ文章をどこで読んだのか、なぜその人がそれを書いたのか、できるだけ覚えておきたいと思うのである。
(たとえ書いた本人が忘れても!)
おそらくこの努力はむなしく、いずれ私はすべての記憶が混濁して、あらゆるアイディアを私が思いついたと主張し、ヨーグルトはいつもあのでかいパックを食卓に一人1個並べていた、実家ではそうしていたなどと言い募るだろう。
そのとき初めて、私もきれいな旗になれるだろう。悲しいことだが。
こういうことを考えているから、日記を書くのに(まじで)2時間かかるのだ。
きれいな旗の中からひとつ取り出して、江國香織「晴れた空の下で」を思い出そう。
わしは最近、ごはんを食べるのに二時間もかかりよる。いれ歯のせいではない。食べることと生きることの、区別がようつかんようになったのだ。
思えば私ははじめから、読むことと書くことと生きることの区別がよくついていないのだ。