この文章で、「読んだ本ランキングトップ10」を作ろうと思っていた。
本棚の前にしばらく立って、読書メーターの履歴をさかのぼって、過去の読書メモを開いてみたりした。
しかし、書けなかった。
全部忘れているからである。
自分の過去の記憶を思い返して、いくつか大好きだった本を思い返してみる。
たとえば、「消える総生島」を授業中に読んで初めて教師から叱られるという体験をしたことや、
「フルーツバスケット」をあまりにも家で読み続けていたためについに隠され、とうぜん隠し場所を探し当ててひきつづき読んでいたこと、
「はてしない物語」を初めて図書室で見つけたときのこと、
あるいは「土神ときつね」を初めて読み衝撃を受けて、図書委員でもないのに図書室だよりに寄稿したこと、
「ティファニーで朝食を」が好きで一時暗唱するくらいだったが、村上春樹訳すところの"アカ"(原文では"ブルーになる/get blue"の対比としての"アカになる/get red")の意味がわからずずっと"垢"だと思っていたこと、などなど。
いや覚えているじゃないか、と思われる向きもあるかもしれないが、悲しいほど忘れている。
カポーティの「誕生日の子どもたち」はやっぱり本当に大好きな短編だ。
描写が好きだし、なによりつくりがあんまりよすぎる。きれいすぎて作り話かと思うほどだ(作り話である)。冒頭の1文と最後の殴られたような1文。
しかし、いま、その大事な冒頭の1文がどうしても思い出せない。
2行目はうっすら思い出せる。"そのことについて、どう言ったらいいのか僕にはわからない"(というような感じ)。しかし肝心の1行目がどんな構造だったか思い出せない。
描写だってだめだ。
メインで描かれるところの美しい少女が、信じられない暑さのなかでバスを降りるところ、日傘をくるっと回すところ、それは思い出せる。
だがカポーティが少女について、どう描写していたか全く記憶にない。映像だけは頭の中で再生できる。しかしながら、少女の名前すら出てこないのである。
これまで読んだ本たちは、このようになんとなく覚えていて、断片が不意に目の前に立ち現れることもあるけれど、あらかた忘れている。
書くときは明瞭に引用できる。文章に使うために読み返すからだ。
しかし、思い出した瞬間はどれも「誕生日の子どもたち」と大差ない解像度である。
とうていランキングを作るには値しない。順位付けをしようにも、材料がないのだ。
これで本を読んだと言えるのだろうか?
言える、と断言する本がある。
ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」である。
著者は大学教授なのだが、冒頭から突然の告白という感じで面白い。
私は本というものをあまり読まない環境に生まれた。私自身、本を読むことがそれほど好きなわけではないし、読書に没頭する時間もない。そんな私がよく、読んだことがない本について意見を述べないといけないという苦しい立場に身をおく羽目になる。
著者は「未読」の状態にも色々あると述べ、極論すべての読書状態は完璧ではないと述べる。
たとえ読んだことがあるとしても、自分が書いたことであっても、忘れてしまうことがある。断片的に覚えていたり、自分の理想と混ぜこぜになってしまったりする。必死に読んだとしてもそうなのだ。
しかし、それで全く構わない。
なぜなら、本を完璧に思い出せず(あるいは読まず)理想や妄想で補完し、コメントすることは「創作」だから。
みずから創作者になること――本書で私が一連の例を引きながら確認してきたことが全体としてわれわれを導く先は、この企てにほかならない。これは、内なる歩みによってあらゆる罪の意識から自由になった者がアクセスできる企てである。
というのも、読んでいない本について語ることはまぎれもない創造の活動なのである。目立たないかもしれないが、これより社会的認知度の高い活動と同じくらい立派な活動なのだ。
バイヤールの論法は回るコマのようであると思う。「読んでいない本について堂々と語る方法」への言及はすべてはじき飛ばされ、バイヤールの論理に取り込まれてしまう。
読書活動というものすべては曖昧である。
我々は読書の記憶を思い出すとき、いや読書そのものを行っているときでも、本そのものを読めてはいない。その状態で本について語るのは、結局自分のことを語っているにすぎない。
でもそれでいい。
私が語っているこの文章も、「あれは"お前の台詞で書け"みたいな本だったな……」とうっすら思い出して斜め読みしたうえで書いている。
バイヤールによれば、本文章は「読んでいない本について……」について書いたものではない。
私の創作である。
本当にバイヤールの文章について書けることは金輪際ないのだ。
それでいい、お前はお前の文章を書け、と力強く励ましてくれるのがバイヤールではあるのだが、どうしても少し淋しい。
私は私の幻影ではなくて、カポーティの文章の美しさそのものに惚れ込んだはずだ。
そう思いたい。
川の水を手で掬い上げることを考える。
美しい水の冷たさは、しかし、掬ったあとにいずれ自分の体温にあたためられてしまう。
ごらん、飲むしかないんだよ、とバイヤールが言っている。
けれどそれは少し悲しく、淋しいことなので、そうして水は手から離れていく。